パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか

2013-03-02 03:13:42 | Weblog
 本屋で、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』という幻灯舎新書を立ち読み。

 「踊る大捜査線」は、初日、徹夜で並ぶ人が出るほどの「事件」とすら言われた大ヒットだそうで、それが後の、つまり現在の日本映画の好調さにつながっているらしい。

 私は『踊る大捜査線』についてはテレビも映画も見ていないし、「好調な日本映画」というのも、見たのは『海猿』と『3丁目の夕陽』のさわりをほんの少しだけテレビで見たことがあるだけ。

 2、3日前にも『3丁目の夕陽』をやっていたが、「じっくり見てやろう」という気分は全く起こらず、すぐにチャンネルを変えた。

 10数年前、「11宮」で日本映画特集をやったときは、相米慎二を筆頭に優れた才能が多数いることに驚いたのだったが(相米を例に出すのは、私のあまりの無知をさらけ出すようで恥ずかしいが、ロバート・デ・ニーロが「『台風クラブ』を見たか」といっているくらいなので書いておきます)、今回の「日本映画の復活」にはどうも興味が持てないでいる。

 さて、『「踊る大捜査線」は日本映画の何を変えたのか』は、監督、プロデューサー、シナリオライター、宣伝、テレビ局などの関係者に対するインタビューが中心で、編著は「日本映画専門チャンネル」となっていた。

 この編集スタイルはなかなかいいと思うが、中にシナリオライターの荒井晴彦がいた。

 しかし、荒井は『踊る大捜査線』の批判者として登場している。

 荒井は、実際には『踊る大捜査線』というより、それ以後の日本映画を総じて批判しているわけだが、どう批判しているかというと、要するに、「なんであんなのが面白いのだ?」につきていた。

 曰く、ともかく見ていてつまらないと自分は思うのだが、一緒に見に行った女性に「どこが面白いのか」と聞いたら「面白いと思う人もいるのよ」と言われ、黙ってしまったが、彼女自身は、それなりに楽しんだらしかった、云々と。

 それで、荒井晴彦ではない、別の誰かだったと思うが、小津安二郎の戦前のサラリーマンものを例に引き、小津映画のサラリーマンは、自分のサラリーマン生活を批判し、嫌っているというのがドラマの基本になっているが、制作者である小津監督自身は、サラリーマン生活を経験しているわけではないのに対し、『踊る大捜査線』以後の日本映画では(『踊る大捜査線』の場合は「仕事場」としての湾岸警察署ということになるが)公的、私的ともども、自分の生活を一切批判せず、受け入れているのが特徴的だと言う。

 これは『踊る大捜査線』を批判しているのではなく、むしろ擁護しているので、多分荒井晴彦の発言ではないと思うのだが、もし荒井の発言だったら、「あまり批判ばかりなのもなんなので」と、本の意図に合わせて、小津の例を出したのかもしれない。

 それはともかく、この発言で、「なるほど! 少し見えてきたぞ」と思ったのだった。

 というのは、少し前に触れたことだけれど、江戸時代の文化、特に「悪場所」の研究で有名だった広末保という人が、10年以上前、「グラフィケーション」で、当時、江戸文化が注目されつつあったことに、広末氏は、かつて石川淳などが江戸を題材に小説を書いたのは、今、自分たちが生きている社会に対する不満、批判を江戸の風俗描写に託していた。

 ところが昨今の江戸ブームは、そのような「現実」に肉薄した動機はなく、ただ江戸が好きだからというだけでしかない、と言うのだ。

 はるか200年前の江戸時代に対する興味も、今、自分たちが経験している「現実」に根拠をもたない限り、単なるオタク的趣味でしかないというわけだ。

 この広末氏の「論理」は、『踊る大捜査線』に代表される現在の日本映画の「人気」につながる。

 小津がサラリーマン生活をしたことがなくても、サラリーマンの生活に対する批判を作品に反映させることはできる。

 そもそも自分たちのサラリーマン生活をそのままコピーしても、表現として説得力を持つはずがない。

 それでもなお、現今の観客たちが『踊る大捜査線』以後の日本映画を支持しているのは、つまるところ、広末氏の言うような「媒介された表現」を経ずして、ダイレクトに社会の現状に対する不満、批判をぶちまけるだけの日本映画に対する不満が不信に変わって、「批判なし、現状容認」のダイレクトな表現に喝采を送っているのかもしれない。

 というのは、ちょっとひねり過ぎかもしれないけれど、「一つになれ」のスローガンで実際に「一つになれる」と思っている人が、『踊る大捜査線』に大喜びし、『海猿』に感動し、『三丁目の夕陽』に涙していると見るのは、決して「ひねり過ぎ」の意見ではないと思う。

 荒井晴彦は、子供のときに見た『シェーン』を最近久しぶりに見たら、実はあれは三角関係の物語であったことに気づいて、名作というのは、見る人が同じでも、時間とともに見方が変わるし、見るの数だけ「解釈」が存在する――そのような作品が名作なので、『踊る大捜査線』はそのような可能性を少しも感じさせない、とも言っていた。

 私はついひと月ほど前に『シェーン』を改めて見たばかりだったので、荒井晴彦の言葉はよく理解できる。

 私も、子供のときに見た『シェーン』とは全然違うことに驚いたのだった。

 そして、2、3日前にテレビで『3丁目の夕陽』をちらりと見たとき、「新しい発見」がありそうに思えなかったので、見るのをやめたのだったが、言い換えると『3丁目の夕陽』は(『踊る大捜査線』も)、「一つの見方」しか存在しない作品なのだ。

 『踊る大捜査線』を一緒に見に行った女性が、「どこが面白いんだ?」と言った荒井に、女性は「面白いと思って見ている人を否定はできない」といったような意味の返事を返したのだったが、それも、『踊る大捜査線』が「一つの見方」しかない映画で、それが受け入れられない人はそのことを受け入れるしかない、と言ったのだった。

 しかし、荒井にしてみれば(私も含むが)、そういう作品こそ「よくない作品」「見る価値のない」作品なのだ。

 今、大人気ドラマだという『相棒』をテレビでやっているが、これもまた「一つの見方」、「一つの楽しみ方」しかない映画であることは、一瞬見ただけですぐにわかるので、すぐに消した。

 消さない限り、目に入ってしまうから、「受け入れられない」人はそうするしかないのだ。 

 長くなってしまったが、とても大事なことだと思うので。

 最後に、幻灯舎新書については、他のも少し読んでみたのだが、全般的に面白くなかった。

 特に「宇宙論」については、全くダメである。

 村山斉という売れっ子が宇宙論を書いていて、新書版ランキング一位!とポップが貼ってあったように記憶しているが、ともかく腹が立つほど要領の悪い文章で全く面白くなかった。

 同じ村山斉のブルーバックス『宇宙は本当に一つなのか』は、面白かったので、多分、幻灯舎の編集が、今の宇宙マニアが何に興味をもっているのか知らないため、また現代物理の奇想天外さに対する理解がないため、当たり障りのない、つまらない文章になってしまったのだろう。

 幻灯舎という名前で20万部売ったのだとしたら、腹立たしい限りである。


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