パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

人は、何を「懐かしむ」のか?(柳本尚規、史歩『Your village―― 故郷+〈故郷〉』について)

2011-08-11 16:00:07 | Weblog
 久しぶりに、写真について、少し長いですが。

 「風に吹かれて」の写真展以来、四ヶ月を越えたが、私がもっとも印象的に覚えているのは、通りすがりにフラリと現れた近所のおじさんやおばさんが、異口同音に「懐かしい」と言ったことだった。
 「懐かしい」は、写真を見る人の「常套句」だが、よく考えると不思議だ。
 近所のおじさんやおばさんは、私の写真の何に反応して「懐かしい」と言ったのか。
 それとも、「お世辞」だったのだろうか?
 正直言って、「常套句」とは、通常「お世辞」に等しいが、私には彼らがお世辞を言っている風には思えなかった。
 ある人(それは、若い女性だったが)など、見本としておいてあった『風に吹かれて』を、優に30分以上、私の目の前で食い入るように一ページ一ページ見、最後に「いくらですか?」と言った。
 私は「しめた!」と思い、「3980円です」と言うと、彼女は舌打ちして「足りない」とつぶやき、「また来ます」と言って帰ってしまって、それきりだったのだが、彼女は、まったく別の用事(集金かなにか)で画廊を訪れたので、私に「お世辞」を言う義理なんか何もないのだった。
 そこで私が想起したのは、柳本尚規、史歩親子による、写真集『Your village―― 故郷+〈故郷〉』に記された柳本尚規の文章だった。

 《「故郷は人が孤独でないことを告げる」。/そう思うようになってから、私は(柳本の故郷の)北海道へ行ってもたくさんの写真を撮らなくなった。というより、一処では一つ二つのシャッターしか切らなくなった。自分の目より鮮鋭なカメラを使わなくなった。小さなカメラのファインダーをのぞき、特別な気分ではない気分でシャッターを押した。そこにいる実感を味わい、ただそのことを残しておけばいいのだから。フィルムが私の記憶を保管してくれるのだから。》

 東尾久のおじさんやおばさんたちや、集金にやってきた女性は、私の写真に、柳本の言う〈故郷〉――「人が孤独でないことを告げる故郷」――を見たのだ、そう私は思ったのだった。

 しかし、何故、そういう心理が醸成されるのか。
 柳本は、次のように説明している。
 常に変貌して定まらない「記憶」をフィルムに焼き付け、保管する装置――それがカメラであるが、そのことを知れば、我々はそれに安んじて、「特別の気分ではない気分」で写真を撮ることができる、と。
 実際、柳本父子による写真集『Your village――故郷+〈故郷〉』に収められた写真はそういうものであったし、私の『風に吹かれて』もまたそうであってほしいと思う。
 しかし、「特別の気分でない気分」と「人が孤独でないことを告げる故郷」、換言すれば「人々に開かれた故郷」がどのような理屈でつながるのか、柳本は書いていない。
 もちろん、これは一つのアフォリズムとして書かれているのであり、そしてアフォリズムとは、「説明不能の言い切りにこそ、その魅力が潜む」(『遊歩のグラフィスム』平出隆)体のものなのだが、その「魅力」を確かなものとするには、「言い切り」に甘んじているわけにはいかない。
 要するに、どういう理屈でそうなるのか、理解しなければ、アフォリズムはアフォリズムとして成り立たないはずなのだ。
 そんなふうに考えている時、否、考えあぐねているとき、偶々入手した保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』(草思社)の一節が目に入った。

 《「私」「人間」「世界」というような言葉が出てきたときに、読者はそれらを“かたちのあるもの”として読んでいるのではないだろうか。“かたちのあるもの”として読む(考える)とは、言い方を変えると“外側から見る”ということだ。…(略)…/世間では物事をモデル化して語ることができる人を「頭がいい」というけれど、そんなものはたいした頭のよさではない。/…(略)…大事なのは、(“私”、“人間”、“世界”というものを)誰も(外側から)見たことがないということを知ることだ。…(略)…「外側から見ること」ないし「俯瞰すること」は、人間の認識にとって欠かせない能力であるのは、間違いないが、欠かせないが故に私たちは自覚なしにいろいろなものにそれを使ってしまっている。》

 唐突な引用になったが、要するに、“私”、“人間”、“世界”といった言葉で示されるもの(いわゆる「抽象物」)は実体をもたず、したがって、それを「見る」こともできないが、何故か、人は、それを「見る」ことができると思い、「見る」ことができるならば、それは「実体」として存在しているだろうと考える。
 この「堂々回り」に気がつくことが、小説入門の第一歩である、と保坂和志は言うのだ。

 一般的に、人は、「もの」を見るとき、その「外側」を見ている。 端的に、それが「かたち」、あるいは「外見」であるが、それは、そのものの真偽(本質)とは関係ない。
 たとえば、「見えているリンゴ=表象」は、見ている限り、蝋細工か本物か、すなわち「食べられる」か「食べられない」か、判断はつかない。
 「食べられるか、食べられないか」について、判断を誤ることは、リンゴに巣食う虫のみならず、我々にとっても命取りになり得る重要な問題であるはずだが、我々はあまり気にしない。
 では、我々は何を気にするのか?
 我々は、「見えているもの」が、見えている通りに「外」に実在すること、そのことを重要視する。
 より正確に言えば、あらゆる「見えているもの」は、内的表象として「私」の目に映っているだけであるが、その「内的表象」を自分の「外」に投影し(疎外し)、それが「外」に実在すると判断する、その判断が正当性をもつこと、そのことを、我々は重視するのだ。
 この知覚の習慣は、人の知性(意識)の大本を成すもので、実際には見ることのない、“私”、“人間”、“世界”、そして“故郷”も、自分の「外側」に見えている、すなわち「外に実在している」かのように思い(ブレンターノは、このことを「意識は常に何ものかについての意識である」と定式化し、現象学の先駆けとなったのだったが)、果ては、「写真に撮ることだってできる!」と考えてしまうのだ。

 『Your Village――故郷+〈故郷〉』は、「故郷は現実、〈故郷〉は夢想」と思っていたという柳本の述懐から始まる。
 柳本は、しばしば自分の故郷である北海道を息子の史歩とともに旅したが、その旅は、柳本自身にとっては「現実」を確かめるためのもの、息子にとっては「夢想に肉付けして、本当の現実に近づくため」のものだと柳本は理解していた。北海道は、柳本自身にとっては「現実の故郷」であるが、東京生まれの史歩にとってはそうではないからである。
 それを、柳本は「夢想の故郷」と名づけた。
 ところが、その旅で、北海道の川を見ている時、息子の史歩から「何を見ても何かを思い出しているようだ」と言われ、「気が重くなる」。
 現実だと思っていた、故郷・北海道は、夢想の故郷だったのか?
 たしかに、「故郷」は、それを見る人の「内側の目」によってのみ、見られる。
 事実としてはそうかもしれないが、それは人を孤独にし、人の気持ちを重くするだけだ。
 この「重い気持ち」は、イタリアの小説家パヴェーゼの小説の一節を思い出すことで打ち消され、柳本は解放される。
 それは、「故郷は人が孤独ではないことを告げる」という文言だった。

 《「故郷は人が孤独でないことを告げる」。/そう思うようになってから、私は北海道へ行ってもたくさんの写真を撮らなくなった。というより、一処では一つ二つのシャッターしか切らなくなった。自分の目より鮮鋭なカメラを使わなくなった。小さなカメラのファインダーをのぞき、特別な気分ではない気分でシャッターを押した。そこにいる実感を味わい、ただそのことを残しておけばいいのだから。フィルムが私の記憶を保管してくれるのだから。》(『Your Village――故郷+〈故郷〉』)

 「人が孤独ではないこと」を告げるメディアこそ、「写真」であったのだ。
 しかしこれは、素朴に見えて、実際は極めて難解な文章であると私は思う。(「アフォリズム」は常にそうなのだけれど。)
 では、どこがどう難解なのか?
 柳本は、自分の故郷に対する反省的意識(知)を徹底化する果てに、その反省そのものが自己滅却せざるを得ない次元に立ち至ったのであり、そして、その次元において、彼の故郷は「知」の次元ではなく、見えているものが見えている通りに存在する「像」の次元の性格をもつことになるのだ。
 そうしてはじめて、柳本の故郷は万人に開かれ、「人が孤独でないことを告げる」。
 心物2元論で言えば、理性(知)の力で「心」と「物」に分けられた世界は、「像」によって再び一つにつながるのだ。
 それが、柳本尚規、史歩の『Your Village――故郷+〈故郷〉』である。

 ここで再び保坂和志に話を戻すと、保坂は次のように書いている。

 《人間が人間として心から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない。つまり、その外に自分が立って論じることができない。それを知ることが哲学の出発点であり、芸術 (『書きあぐねている人のための小説入門』では、「芸術」ではなく、「小説」と書いているが、保坂本人も「ここは広く芸術と言うべき」と述べているので、以下「芸術」とする。)もまた完全に同じなのだ。哲学は社会的価値観や日常的思考様式を包括している。芸術も、社会や日常に対して哲学と同じ位置にある。つまり、哲学、科学、芸術の三つによって包含されているのが、社会・日常であり、その逆ではない。…(略)…/日常が芸術のいい悪いを決めるのではなく、芸術が光源となって日常を照らして、ふだん使われる美意識や論理のあり方をつくり出していく。》

 ここで「芸術」を「写真」に置き換えれば、保坂の言葉は、そっくりそのまま『Your Village――故郷+〈故郷〉』について語る言葉になるにちがいない。
 すなわち、被写体である日常のありようが(外から)写真のいい悪いを決めるのではなく、写真自体が光源となって日常を〈日常〉として、すなわち「像」の性格をもつものとして照らすことで、ふだん使われている美意識や論理のあり方として一般的な〈日常〉、故郷なら、〈故郷〉をつくり出すのだ。
 こうして「故郷は〈故郷〉となる。あなたの故郷と私の故郷は、《故郷》となって一緒になる」(柳本)のだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿