パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

say your version

2012-04-30 20:26:47 | Weblog
 なんとか「写真の地層」展も終わりました。

 土曜日には中平卓馬氏本人が見えて…。

 ただし、その御本人は、ここ一年、ほとんど口を開かなくなったそうで、また文字を読むこともないそうで、周りの付き添いの人が「中平さんのことが書いてありますよ」と私の壁紙を指差しても、なんとなくニコニコ笑っている風ではあるけれど、それだけだった。

 とりあえず中平氏のことはさておき、科学史の専門家である村上陽一郎と、宗教評論家といっていいのか、ひろさつや氏の対談本「現代科学・発展の終焉」(主婦の友社)という本を読んで、非常に面白かったので、それについて。

 中でも面白かったのが、ひろさちやが、アメリカ人と話をしているとき、「セイ・ユア,バージョン」と言われたいう話。

 そのアメリカ人曰く「お前が話しているのはお前のオピニオンだ。私が知りたいのは、お前のバージョンだ」と言われたというのだ。

 しかし言われた時はよくわからず、後で調べたら、オピニオンというのは、その人が真実だと思っていることを主張することで、バージョンというのは「異見」と訳されていたという。

 つまり、件のアメリア人は、今、自分たちが話題にしていることについて、「お前が真実だと思っていること」ではなく、「お前が考えている対処方法があるなら、それを言え」と言ったということなのだろう。

 なんとなくわかるし、私が以前からNHKにかみついているのは、NHKが自分のオピニオンばかり言っているからなんだ。

 オピニオンリーダーを気取っているのかもしれないが、大公共放送のNHKが、自分が真実だと思っていることを放送で流されたらたまったものではない。

 ただし、NHKのバージョンを明らかにする権利はある。(ただし、今から言う事は自分のバージョンですとちゃんと断らなければならない…と思う。)

 しかし、「異見」といっても、いまいちイメージがわかない。

 それで英英辞典で調べたら、opinion は「that which a person thinks about somethig」とあった。

 なるほど、明快である。

 ではversionはどうかというと「one person`s account of an event, as compared with that of another person」とあった。

  これも明快だ。

 「異論」というと、「ちょっと変わった異見」といった風に理解されかねない。

 あくまでも「say your version」と言いたい、NHKさん。

 さて、そのNHKで、昨日の深夜、解説委員風の連中が集まって、自分のオピニオンを述べていた。

 一年前くらいから、定期的にやっている番組だが、くりかえずが、NHKは、自分のversionを言う権利はあっても、pinion は言ってはならない。

 と断じてもいいと思うのだが、これはある意味、知識人としてのセンスの問題なので、一応、私のオピニオンとして述べておく。(ここはたぶん、オピニオンでいいのだろう。)

 で、話は結局、高齢社会における社会福祉をどうするかということになるわけだが、その前提として、日本政府の抱える国債が1000兆円を越えているわけで、その「現実」を見据えなければ、何を言っても非現実的だ、ということで皆さんいいですね、と言うと、解説委員一同うなずいていた。

 民主党の「マニフェスト」は、「非現実的」ということのようだが、忘れてはいませんか!と言いたい。

 それは、その番組にツイッターで参加していた視聴者も誰一人指摘していないこと、他のマスコミも全然触れていないことなのだが、日本政府が、IMFにものすごい巨額の支出を決定したということだ。

 アメリカは、自分のところの財政赤字が厖大なのでという理由で支出を拒んだというのに、日本は、1000兆円の借金がありながら、ほいほい金を出すわけだ。

 どう考えてもおかしいだろうに、それでも、何にも言わない、日本人。

 財務省は、「厳しいフトコロの中から、なんとかやりくりして欧州危機の回避することができれば、日本の景気にも好影響になるし、日本の評判も高まる」とか考えているのだろうが、だとしたらそれに対する異見――versionを言わなければならないだろう、マスコミは。

 もし仮に財務省の意見に賛成でも、それでもあえて「異見」を陳述する義務が知識人、マスコミにはあるのだ。

 ひろさちやと村上陽一郎の対談本に戻ると、同書の後書きに、ひろさちやが次のように書いていた。

 日本人は真の宗教を持っていない/だから「科学教」というインチキ宗教の狂信者になってしまうのだ。/これは危険である。/早く目を覚まさないととんでもないことになってしまう。/私はそのように憂えているんである。

 同書は平成6年の出版だから、フクシマ事故のずっと前だが、まさにフクシマ原発事故は、ひろさちやが憂えていたことが起きた、と言っていいだろう。

 「日本人は真の宗教を知らないから、インチキ宗教に引っかかる」という論理は「真の宗教とは何か」という、結構難しい問題を含んでいるわけだが、それにさらに、「科学教」という言葉が絡むから、いっそう難しい。

 フクシマ原発というか、日本の原発が全部そうなのだが、安全委員会が「全電源が喪失するという事態は考えなくてもよい」という一言が今の事態を招いているわけだが、何故、「考えなくてよい」という、世界中のすべての科学者、技術者が異口同音に「信じられない!」と驚く、不思議な結論に至ったのか、それをじっくり考えると、日本はどうしても、そういう不思議な結論を受け入れざるを得ない、歪んだ社会なのだという結論に達してしまうかもしれない。

 福島の樹齢千年以上の桜をあがめ奉る愚民、いや、心優しき選良の人々を見ると、日本人は真の宗教を持っていないから、科学教というインチキ宗教の狂信者になるというひろさちやの言葉がむべなるかなと思ってしまう。

 鈴木大拙は、日本の敗戦を見つめて書いた「日本的霊性」の中で、万葉集の「今の世に楽しくあらば来む世には虫にも鳥にも吾はなりなむ」という歌を挙げ、日本人は古代から深刻な宗教意識と無縁だったと嘆いているが、もし鈴木大拙が生きていたら、「全然同じだ」と言うだろうなあと思う。

 もっともっと「深刻」になり、とことん「絶望」し、生活を根本から変えなければ、明日なんか、見えてくるわけがないのだ。

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1 コメント

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まさに、そのとおり! (尾崎伸行)
2012-05-04 18:03:17
日本人は、独特の集団主義で、護送船団方式の社会を、生き抜いてきた。
おそらく、何も考えていないし感じてもいない。死ぬ時まで、自分のことだけを考え生きる。其れだけしか文化背景はなく、違うもの、異質な存在を抹殺し、笑おうとする。違うものは死ななければならない。違うものを話題にし取りあげる、それが、メディアにできていない。南原企画の編集にはそれが、微かにあったのに。
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