パラドクスの小匣

南原四郎、こと潮田文のブログです。

上と下か、右と左か

2009-04-15 18:07:25 | Weblog
 少し前にブックオフで100円で買った、岸本重陳の『「中流」の幻想』をぱらぱらと読む。

 なんで買ったのかというと、ちょっと気になるフレーズがあったからだ。

 この本は、今から30年程前、1978年に書かれて出版されたものだが、当時はオイルショック後の不況がだらだらと続き、なおかつ貿易収支は大幅な黒字、世論調査をすると、自分は中流であるという解答が95%にも達するという状況だった。

 この数字を分析して、社会学者の村上泰亮が、日本の社会には「上」も「下」もなく「中」ばかりになったと言った。

 そして、かつては「上と下」で分けられていた社会が、「右と左」にわかれるようになったとし、それを「地位の不一貫性」が進んだ結果として説明した。

 なるほど、と思うのだが、実は岸本氏はこの村上理論に反対する立場を、この本で表明しているのだが、その理由として、日本が村上氏の言うように「みんな豊か」(村上理論はそういう意味ではないように思うが、まあそれはさておく)になったと主張することが問題だと自分(岸本)が思うのは、「みんな豊か」論は、当時の景気回復の政策を考え、組み立てる上で間違った方向に官僚を誘い込みはしないかというのである。

 というのは、岸本氏の見るところ、当時の政府与党の景気対策は、諸外国、特にアメリカから求められていた「個人消費の増加」に対し、そのようなものは「眼中におかず」といった態度で対していたという。

 それでも、1977年の秋から、当時の福田首相が、「円高攻勢を回避するには内需拡大で行くしかない」と表明したのだが、実際の政策にはそのような「個人消費の拡大」を肯定するような姿勢はなかった。

 何故なのか。

 岸本氏は、「なぜ個人消費を相手にせずという政策が一貫しているのか。それは、国民は充分に豊かになったのだという認識を政府が持っているせいではなかろうか。国民は充分に豊かであるから、これ以上個人所得を増やしたり、あるいは個人消費を増やしたりする必要はないのではないか。資源が制約されてきて高価格になってきている以上は、資源が個人消費の方に流れてゆくよりは産業消費のほうに確保される必要がある。こうい判断を持っているせいだと言えそうである。」

 私が興味を持ったフレーズというのは、ここのことである。

 というのは、年金問題が盛んに取り上げられるようになった3、4年前に、社会保険庁の、ノンキャリアだが幹部職員である人の書いた本に、日本の福祉政策の根本はは、貧乏対策ではない、と明言している箇所があるのだ。

 日本政府(実際は官僚)は、貧乏を救うのではなく、貧乏な人、家庭をなくすことを目的にしているというのだ。

 そうして、「豊か」になった人々が、「豊か」になり損なった人々を、お互いに助け合う。

 これが、日本の福祉政策の根本なんだ、と書いているのだ。

 これは、それより遥か20数年前に書かれた岸本氏の著書と平仄が合う。

 それで買ってみたわけだが、残念ながら、日本政府の政策について触れているのは、私が見つけた箇所だけで、後は、村上理論と、あと富永理論というのもあったそうで、それに対する反論に終始していた。

 それは、要するに、日本人がみな自分を中流だと思うのは、一種の視野狭窄になっているのであって、「上」と「下」は依然としてあるというのだ。

 つまり、自分は食うや食わずの状態だが、みんなもそうならまあ自分の暮らしも世間一般並み、つまり、「中の中」だろうと思うようなものだというのだ。

 これはどう考えたっておかしいし、実際、岸本氏自身、その後で、「食えない」状態は絶対的なものであるから云々とややこしく持論を修整するのだが、それはそれとして、岸本氏はもうとっくに亡くなっているのだが、もし生きていたら、今の状況をどう見るだろうか?

 多分、「上下の区別はやっぱりあったじゃないか!」と先見の明を誇るのじゃないかと思うのだが、私はそうは思わない。

 今の「上」「下」は、いみじくも、勝ち組、負け組と言っているように、実際には「上」「下」を構成していない。

 むしろ、「上」と「下」がなくなってしまった社会であるために、「勝ち」と「負け」で分類せざるを得なくなっているだけなのだ。

 そして、その分類の基準が、なんで「勝ち/負け」なのかというと、日本の社会が「縦社会」だからだ。

 とまあ、そんな風に思うのだけれど、それにしても、70年代、80年代には社会学的分析の書が多く出版されたが、今はそれが影を潜め、「勝ちだ」、「負けだ」と、ベタでなじり合っているだけのような気がする。

 そこが一番の問題のように思う。

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