再臨(パルーシア、παρουσια、parousia)について
参照:Understanding the Parousia: The Last Days According to Jesus with R.C. Sproul
この動画の内容がかなり高度。
そこで、N.T. Wright師の見解を拝聴しようと思う。
上に提示したR.C. Sproul師の動画内容と似ていますが、こちらの方が短くて分かりやすい。
☞ N. T. Wright on the Second Coming of Christ
「この世において天の文明を築き上げよ」という力強いことばを師は発出している。
◇◇
帝王とその帝国への期待を例にとると、この終末論は実によく理解できます。
パウロがパル―シア(parousia,παρουσια)、すなわち再臨(キリストが再び現れること)は旧約聖書の専門用語ではありません。
これは、帝王専用の専門用語であります。
parousiaとは、旅行や戦闘のためにローマから離れて、帝王が帰還する、王が現れる、神である王が出現する時に起こる現象を指します。
何故なら、その時、帝王家のある人たちは聖なる名誉を自らに与え、全住民が出て行って、帝王の帰還・入城を大歓迎する。
これがパル―シアです。
これが、第1テサロニケ4章において起こっていることであります。
イエスが再臨し、万人が膝を屈めて挨拶をする。
ピリピ3章にこうあります。
ピリピ3:17
兄弟たち。私を見ならう者になってください。また、あなたがたと同じように私たちを手本として歩んでいる人たちに、目を留めてください。
私を見習って欲しいとパウロは言っています。
パウロは、彼がユダヤ人としての特権、ヘブル人の中のヘブル人としての特権に加え、自分に帰属するあらゆるものを如何に断念したかについて語っています。
ピリピの人たちは自分たちの特権を断念することができたでしょうか。
彼らの多くはユダヤ人ではありません。
しかし、彼らの中には、ローマ帝国の市民権を持っていて、それにより利益を得ている人たちがいました。
自分たちの権利の上に胡坐をかくのではなく、それを捨てて欲しいとパウロは彼らに言います。
何故なら、地上の事々に思いを置いても恥とも思わず、むしろあの(空虚な)袋のようなものを自分たちの神であると誇っている。
しかし、わたしたちの国籍は天にあります。
言っておきたいことがあります。
今日の午後お話ししませんでしたが、私たちの国籍は天にあるというパウロの言っている意味は、ある日私たちはそこに行くだろうという意味ではありません。
それは、国籍ということばの意味を考えれば分かることです。
ギリシャ世界の周辺、特にギリシャの東側に沿って、ローマは植民地を作っていました。
何故なら、パウロの時代の1世紀前、彼らはありとあらゆる市民と戦わなければならなかったからです。
そこにはあらゆる古参兵士たちがいて、ローマが望んだ最後のものは、イタリアへと帰ろうとする、或いはローマに帰属する古参兵士たちだったのです。
沢山の戦利品と分捕り物を両手に持って帰ろうとする兵士たちだが、ローマのような人で溢れている小さな町は、もはや彼らの住む場所ではなく、これが彼らの頭痛の種でした。
そこで、彼らは植民地を作ったのです。
ローマ市民だが、ギリシャの植民地に生きている人たち、或いはローマ文化を有してはいるが、その地で生きている人たちと同じように、パウロが私たちの国籍は天にあると言う時、退職した後に戻る場所のことを意味しているのではありません。
注)ローマ市民の国籍はローマ、しかし今生きているのは植民地。一方、クリスチャンの国籍は天、しかし今生きているのはこの世、という比較対照。
クリスチャンとは、天にある文明を今置かれているこの世界へと持ち込む人であるということをパウロは言っているのです。
主を、王を、イエスを、(これら3つのことばは帝王のことば)私たちは天から期待する。
誰が、この恥ずべき体を、主の栄光の体に変えてくれるだろうか。
主にすべてのことを委ねさせることのできる御力によって。
パウロはしばしば詩篇8篇を引用します。
詩篇8篇4~6
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。
パウロは、「これはアダムを表現したものであり、同時にイエスを表現したものである」と言います。
私たちは皆、イエスは主であり帝王であることを知っています。