メシアの時代が到来するとディスペンセーション主義のプレミレの人々は叫んでいる。
しかし、メシアが降誕し、十字架にかかり復活して昇天し、天地における王になったときに、メシアの時代は到来した。
我々が生きている現代もメシアの時代である。
「え~!! 現代がメシアの時代だって?? ウクライナ戦争、ガザ戦争、流行り病い… こんな時代がメシアの時代???」と彼らは言うだろう。
しかし、我々がどう感じるかは問題ではない。
問題は聖書が何を言っているかである。
聖書は、世界はキリストの王国になったと宣言している。
キリストが昇天された時に、「天においても地においても、一切の権威が私に与えられた」(マタイ28章)と聖書において宣言されている以上、「メシアの時代」が到来したと考える以外にない。
「いやいや、今日の悲惨な世界の現状を見るときにそのようなことは信じられない」というならば、それは不信仰による。信仰とは、目に見えるものに頼ることではなく、目に見えないものに期待をおくことだから。
どんなに目の前の状況が悲惨であっても、聖書が「メシアの時代がきた」と宣言したら、「はい、そのとおりです」といわねばならない。聖書を前にして、我々に御託を並べる権利はない。
このような文句を言う人々は、みな一様に先入観に支配されている。それは、「メシアの時代は、完全に平和で幸せな時代である」という先入観である。
しかし、聖書は、メシアの時代とは戦いの時代だと証言している。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです(ルカ11:20)。」
ここで神の国は、悪霊どもを追い出した「結果」到来するとは書かれていない。悪霊どもを追い出す「過程」で到来しているといわれている。
つまり、神の国は、暗闇の勢力との戦いと共存するといわれている。
マタイ11:12
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
「再臨のイエスが、悪霊たちをたち滅ぼして、もはやいかなる敵対も、戦いも、妨害もなくなった」時代を神の国とかメシアの国と聖書には書かれていない。
現在、我々クリスチャンは、悪霊の攻撃にさらされている。戦いが継続しながら世界の弟子化は進展していく。
これこそ、メシアの時代の特徴なのだ。メシアの時代は、「戦闘の時代」なのだ。しかし、この戦闘は我々の勝利に終わる。なぜならば、キリストが天地の王だからだ。
キリストは法的に主権者である。しかし、実際の世界はまだキリストの主権を認めようとはしない。つまり、実際的には主権者ではない。しかし、法的な主権者であるならば、時間とともに実際的な主権者になることは明らかだ。
キリストが世界の実際的な主権者となるには、我々の戦いが必要である。キリストは、我々を戦士として召しておられる。我々がサタンと戦うことなしに、キリストが主権を取られることはない。
再臨のキリストは、総大将として、サタンにとどめを刺すために来られる。
敵地を獲得する場合、最初に元帥クラスの将校が乗り込む戦争などない。
最初に切り込むのは、兵隊である。兵隊が敵陣をつぶした後に、総大将がやってくる。
しかし、プレミレの図式では、兵隊がやっても無駄だから、総大将が切り込まなければならないと教える。
「再臨が来るまで、我々はサタンに勝つことはできない」と彼等は教える。
現代はメシアの時代である。
メシアの時代は、戦いの時代である。メシアはすでに天地の王である。だから、この戦いは我々の勝利に終わる。我々が勝利するのは、歴史が始まる前から神が定めておられる運命なのだ。我々には、勝利以外ありえない。
だから、確信を持って我々はサタンと戦わねばならない。