☞ R.C. Sproul: What Is the Gospel?
33分21秒から最後まで。
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つまり、福音伝道にとって重要なことは、イエスキリストの贖いの死と復活の命の客観的利益を、如何にして自分のために享受するかにある。
新約聖書は、イエスキリストの恩恵を受け取るのが福音であると教える。
為し得る行ないに依らずに、イエスの完璧な恩恵を受け取る。
律法の行ないによって、肉は義とされないからだ。
17節でパウロが言う福音とは、「福音には、信仰から信仰へと神の義が啓示されている。」
ルターはオーガスティンから受け取った古代の資料を熟読しながら、ウィッテンベルクにおけるローマ書に関する講義を準備していた。
オーガスティンはこの聖句を注釈して、次のように言った。
パウロが義について語る時、その義とは、神ご自身の義のことではない。
パウロは未知の義(alien righteousness)と名付けた。
未知の義とは、義ではない者に無償で与えられる義のこと。
信仰によって、信仰のみによって受け取られる義。
人はそれを稼ぎ出すことはできない。
人はそれを受けるに値しない。
人はそれを働いて得ることはできない。
人ができることはそれを受け取ることのみ。
自分の行ないを混ぜることはぜず、信仰によって、信仰のみによって、キリストを信じることにより神の福音を受け取る。
それが極めて単純化された福音である。
キリスト教史の全世代において、それは変えられ、曲解され、改良されてきた。
中世には完全に失墜し、教会によって救いの全く異なる体系が作り出された。
16世紀の教会は、信仰のみによる義という福音を非難した。
ガラテア書を見てみましょう。
お読みします。
この箇所は、使徒パウロのペンから読み取ることができる極めて強力なことばで書かれている。
パウロの書簡を読む時、彼の心が牧師の心であることを見逃してはならない。
パウロは只々イエスキリストという子羊に対する憐れみを滲ませている。
また、民や教会の繁栄に対して言葉にし難い苦悩に堪え忍んでいる。
パウロは、自分が卑しい心、あるいはとげとげしい者ではないと言っているが、ここでは、あえてそうしている。
私が「使徒の驚き」と呼んでいることを告知することから、彼は語り始める。
ガラテア書1章6節、パウロは言います、「私は驚いている。」
何について驚いているのか。
そんなにすぐに、キリストの恵みにあってあなたがたを召して下さったお方から顔を背けているということ。
彼らは単に何かから顔を背けただけではなく、何か別のものへと顔を向けた。
彼らが顔を向けたものとは、異なる福音だった。
すぐにパウロは訂正する、「もうひとつ別の福音があるのではない。」
私パウロが言うこれらのことばから、人々はもう一つ別の福音があると思ってしまう。
福音を改良できると思ってしまう。
福音を編集できると思ってしまう。
福音を変えることができると思ってしまう。
そして、別の福音へと移ることができると思ってしまう。
しかし、他に福音は存在しない。
福音は一つしかない、神の福音ただひとつ。
あなたがたを惑わし、キリストの福音を曲解させる連中がいる。
パウロはかなりヒートアップする。
「もし私たちあるいは天からのみ使いが、私たちが宣べ伝えた福音ではなく、何か他のものを宣べ伝えるのなら、その者はanathemaされよ。
これ以上強いギリシャ語はない。
その者を地獄に突き落とせ(damn)、という意。
以前に使徒たちから聞いて受け入れた福音ではなく、何か他の福音を宣べ伝える者には、神の呪いが下れ。
たとえそれが天のみ使いであっても。
もしも栄光の光と燦然と輝く衣を帯びるみ使いが、日曜の朝あなたの教会に入り込んで、新たに改良された福音をあなたがたに授けるなら、そのみ使いをエーテルパンツの席から追い払い、神の呪いを頭にかぶせ、その場から叩き出せ。
これがパウロの言い分だ。
くり返し強調して、パウロは9節で次のように繰り返す。
前にも言ったように、そして今一度言います、「あなたがたがすでに受け入れた福音以外のものを宣べ伝えている者がいるなら、その者は呪われよ。」
数年前、福音の性質に関する熱い討論に関わったことがある。
LigonierやJohn MacArthurも参画した。
ジョンは私とともに、不評な側に立った。
激しい熱気に包まれて、私は圧倒され友を数人失った。
ある日の朝、一人で教会に行き、席に着いた。
ガラテア書1章にあるこれらのことをもう一度読み返す必要があった。
そして、以前に読んだことのあるこの箇所すべて(別の福音に関するパウロの警告)を読み返した。
これまで、9節と次の10節の間に直接の関連性を見出すことはなかった。
再度この箇所を読み返すまで、私はこの箇所を実存主義的に、また経験主義的に
読み取ったことはなかった。
パウロは言います、「私は人を説き伏せようとしているのか、それとも神を(説き伏せようとしているの)か。人を喜ばせようとしているのか。」
人々がキリストの福音を妥協する、ないしは福音を交渉する第1の理由は、人を喜ばせるためだ。
パウロは「私は人を喜ばせようとしているのか」と問いかける。
さあ、私もそんな問題を抱えている。
私は人を喜ばせたい。
私を好きになって欲しい。
この場にいる皆さんに呪われて欲しくない。
パウロは言います、「もし私が今もって人を喜ばせようとしているなら、私はイエスキリストの僕ではない。」
災いあるかな、福音を交渉する者よ。
呪われよ、福音を弄ぶ者よ。
良き知らせを悪い知らせに変えてはならない。
これは神の福音。
私たちにそれを改ざんする資格はない。
(祈り)
父よ。
あなたの良い知らせに感謝します。
私たちが改善できるはずもありません。
主よ。
福音は滅びる者には恥辱であるがゆえに、人は福音に抵抗するがゆえに、福音をより受け入れやすく、心地よく、より簡単にする傾向にあります。
そして、砂糖をまぶそうとします。
あなたが福音の中に与えて下さった御力に対する確信を欠いていることをお許しください。
父よ。
私たちはこの福音によって救われました。
この福音ゆえに、行ないによってではなく、信仰によって生きております。
この福音を介してイエスの義のそしりを受けております。
父よ。
失われ、破壊された世のために、十二分にこの福音を伝えていくことができるように、勇気と情熱とを与えて下さい。
イエスの御名によって、アーメン。