みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

Coffee Break, #85

2017年06月11日 | コーヒーブレイク
エペソ4章17節
そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。
もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。

むなしい心とはどんな心か。

この点を追及する前に、この日本語訳、かなりおかしいことを指摘しておきたい。

以下のように解釈していくと文意が逆転してしまうので、大変由々しき問題だ。

>おごそかに勧めます

とあるが、原典にはそのような記述は見当たらない(TR版≒ビザンチン版)。加えて、最後の動詞が否定命令形になっているが、これも原典と違う。原典ではμαρτυρομαι(testify)につながる不定詞(περιπατει)で使われている。命令形ではない。

では、以下の点から検討していく。

まず、むなしいと訳された単語は ματαιοτητιで

ματαιότης:
From G3152; inutility; figuratively transientness; morally depravity: - vanity.

最初にinutilityという訳がある。これがこの単語の原義。inutilityとは実用性をもっていない特質と言う意味。つまり、あるのに使わない或いは使えない状態ということ。

次に心と訳された単語はνοῦςで

νοῦς:
Probably from the base of G1097; the intellect, that is, mind (divine or human; in thought, feeling, or will); by implication meaning: - mind, understanding. Compare G5590.

この単語は、前回のエントリ-で出てきた単語と同じで、思い(マインド)という意味のことば。先に書いたように、我々キリスト者のマインドと天は直結している。いわば至聖所のようなもの。この思い(マインド)の入口が信仰(信力)の門(ポータル)だ。具体的にはキリストの十字架。信力とは神から賦与された第6番目の能力、すなわち超能力のこと。以上を踏まえて、ματαιοτητι του νοος とは、「むなしい心」ではなく、「廃用化している思い(マインド)」と訳出すると原典に近い訳となる。

以上を参考にして、全文直訳する。

エペソ4:17
そこで、私はこれを証言する
主にあって
あなたがたは決して生きてはいないということ
他の異邦人が生きているように
彼らの廃用化しているマインドによって


This I say therefore, and testify in the Lord
that ye henceforth walk not as other Gentiles walk
in the vanity of their mind
(KJV)


*古典ギリシャ語では、2人称複数の現在形と命令形の語尾変化が同じであるという点が混乱の原因となっている。しかし、神のことばに強い表現形式である命令形はあり得ないと考えるのが妥当ではないかと思う。十戒も、実はヘブル語原典では、命令形ではなく未完了形で書かれていることは先に示した。日本語という言語に翻訳した場合、命令形で訳出しないと意味が通じる文章にならないというのであれば、この言語は捨てるべきであると思う。KJVが良い。