みことばざんまい

聖書を原典から読み解いていくことの醍醐味。この体験はまさに目からウロコ。

#24 終末預言 by T. Tomii

2021年12月29日 | 終末預言 
携挙は紀元1世紀に起きた

なぜ、素直に書かれている通りに理解しようとしないのか、できないのか。

問題は、受洗直後にさかのぼる。周囲のクリスチャンが皆人類終末預言信者だったから。以降、何ら疑問も持たずに信仰生活を過ごしてきたため、それが頭の底にこびりついてしまっている。

小学校の頃、人は猿から進化したと聞かされ、何ら疑問を持たずに大人となっていく状況と似ている。実際、聖書の世界を知らない人たちは、それを固く信じたままこの世を去っていく。

共産主義というのは、財産を共有し、裕福な人が貧しい人に食べ物を分け与える大変良い社会制度だという信仰も知らず知らずのうちに刷り込まれてしまった。この刷り込みは、おそらくNHKなどのメディアによる洗脳が原因。

携挙についても再考が必要。周囲のクリスチャンは皆人類終末論者だから、人に聞いても埒が明かない。自分で考える。そして良書をできるだけ多く読む以外に方法はない。
パウロを偽預言者にしてはならない。いわんや、主イエスキリストをや。

◇◇


(1)

教会では、携挙がこれから起きると教えられているが、携挙はすでに紀元1世紀に起きた。


次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4・17)

「生き残っている私たち」とは誰か?

パウロと手紙の直接の読者テサロニケ教会の人々である。

21世紀に住むわれわれだろうか。

違う。

なぜならば「生き残っている」人々ではないから。


パウロが手紙を書いた時点で生き残っている人々は、すなわち紀元1世紀の人々である。

「私たち」とあるから、それは、漠然と紀元1世紀の人々ではなく、パウロが語りかけている相手、つまり、読者であるテサロニケ教会の人々以外ではない。

そして、その「私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」のである。

つまり、紀元1世紀のテサロニケ教会の人々が携挙される。

これは成就した。

なぜそう言えるのか?

この手紙が聖書に含まれているから。

もしパウロの言葉が外れたのであれば、聖書には含まれていないはずだから。

聖書にこの手紙が含まれているということは、この予言が成就し、紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが、携挙されたことを意味している。

いわゆる「外的資料」は不要。

聖書は聖書によって解釈すべし。

聖書以上の権威がない以上、これが聖書解釈の大原則である。

イエスの紀元70年の来臨についても同じ。

ある人は、「イエスは昇天と同じ姿でまた来られると聖書に書いてあるが、そんなこと起きたのか?歴史的な資料でそんなことを示している文書はないが。」というが、聖書の記述は聖書によって証明されるので、紀元1世紀にイエスの再臨があったことが聖書によって証明できれば、外部資料の助けは不要なのである。

イエスはマタイ24章において「これらがすべて起きるまでこの時代は過ぎ去らない」と言われた。

これによって、再臨が紀元1世紀に起きたことは明らかである。


だから、外部資料がなくてもわれわれにとってこの事実は受け入れなければならない。

紀元1世紀のテサロニケ教会のクリスチャンたちが携挙されたことを示す歴史的資料がなくても、われわれは、それが起きたことを信じ「なければならない」。

(2)

携挙は、歴史的事実として起きた。

だから、われわれ21世紀に住むクリスチャンに起きることを期待すべきではない。

ディスペンセーション主義が教えるような、「これから世界は大患難時代に突入し、その前に(またはその最中、もしくは、その後に)携挙が起きる」ことはない。

大患難時代もこれから起きることを聖書から証明できない。

なぜならば、あれは、紀元1世紀に起きたから。

イエスの再臨が紀元70年に起きる前に、黙示録の預言どおりにそれは起きた。すなわち、

1.反キリスト(つまり、多数の背教者)が現れ、

2.獣(つまり、皇帝ネロ)が現れ、

3.クリスチャンが多数殉教し(ローマ大火後の大迫害、ペテロやパウロの殉教など)

4.獣のしるしがついていない人々は誰も売ることも買うこともできなかった(これは資料がないが、聖書そのものの証言によってあったことがわかる)。

歴史的資料があるかないかにかかわらず、聖書の内部証明によって大患難があったと分る。

そして、同じように、携挙もあった。

大患難を未来に期待できないように、携挙も期待できない。

(3)

ただし、「クリスチャンが昇天し、キリストとともに王となり、世界の支配者になった」という意味において、携挙はわれわれにも起きる。

それが起きるのは、われわれがこの肉体を脱ぎ捨てるときである。

イエス・キリストの復活と昇天がすでに起き、それに伴ってクリスチャンの復活があり、携挙という昇天があった。

また、墓が開いて、眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った。
そして、イエスの復活の後に墓から出て来て、聖都に入って多くの人に現われた。(マタイ27・52-54)

旧約時代において、クリスチャンもノンクリスチャンも死ぬと黄泉に行った。

クリスチャンはアブラハムがいる「慰めの場所」に、ノンクリスチャンは金持ちが落ちた「苦しみの場所」に。

しかし、イエスが復活し、黄泉に下り、これらクリスチャンたちを引き連れて、パラダイスに上られた。

新約時代になって、クリスチャンは、もはや黄泉の「慰めの場所」に下ることはなく、死ぬとすぐに復活し、体を与えられ、直にパラダイスに行く。

だから、紀元1世紀にテサロニケの人々に起きた携挙は、われわれも肉体を離れるときに経験することになる。

しかし、紀元70年頃の再臨の際に起きた携挙がこれから起きることを期待できない。

(4)

紀元70年頃の再臨は第1の清めであり、世の終わりにある再臨は第2の清めである。

注)富井師は清めと表現しているが、Sproul師が示唆している解釈とほぼ同じ。人類史の終わりにある来臨は、新約時代の教会に対する裁きという理解。つまり、今の世における反キリスト、偽預言者、偽クリスチャンに対する裁き。旧約のユダヤ人が裁かれたように。
Sproul師によると
これらの記載されたイメージはすべて、ご自身の民にる下る神の裁きを指し示している。私は個人的に、オリーブ山の説教においてイエスが話したことは、その時代の終末における最後の来臨ではなないと考えている。最後の来臨はまだ起こってはいないと考えている。しかし、権威を帯びた来臨とご自身の民に対する裁きについて主は話していたと考えている。そして、それは紀元70年に起きた。そうであるなら、主のことばは真実である。主は真の預言者であることが証明されたことになる。偽預言者ではない。


イエスの千年王国(黙示録が象徴的数字で満ちているように、文字通りの千年と解釈する必要はない)が終るときに、イエスは再度来臨され、歴史が終わる。

律法の定めのように、清めは2度必要である。

第1の清めは、法的な清め。

つまり、全世界がキリストによって法的に和解し、所有された。

(神は)その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1・20)

この所有は、歴史を通じて、現実化されなければならない。

教会には、その使命が与えられている。

つまり、「地を従えよ」の創世記の命令を成就するために、教会は働かねばならない。

全世界を福音によって変える使命がわれわれに与えられている。


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