日本は、「忖度」、の方が当たり前の社会である。
日本と、欧米を比べてみる。
日本は、上下関係の社会である。
欧米は、実力主義の社会である。
ヨーロッパの歴史は、ソクラテスから始まって、哲学が途切れることなく、続いてきた、(ある哲学)に対する、発展や、批判の、哲学自体の弁証法の歴史でもある。
一方、日本は、哲学というものが、明治維新で、近代になって、入ってくるまで、なかった。
その代わり、「源氏物語」、や、「枕草子」、や、「古今和歌集」、など、情緒、感情の細やかさ、が、発達した。
昔は、日本は、言葉で、相手と、会話をして、意志を、はっきり伝え合うのではなく、短歌を読み、それによって、自分の意志を、遠回しに相手に伝え、相手も、短歌を返すことによって、自分の意志(返事)を告げていた。←極めて、キザであり、もののあわれ、であり、芸術的である。
そんなことをして、意志を伝える、ということをしていた国は、日本だけである。
それは、日本人が、芸術、感情、が発達した歴史からである。
それが、しきたり、にまで、なってしまった。
ヨーロッパでは、国が接していて、(イギリスも、ヨーロッパに接しているようなものである)戦争の歴史であり、哲学の歴史であり、科学の歴史であり、一つの国で発した、哲学は、他の国にも、すぐに伝わった。
合理的、論理的に物事を考えるから、日本のように、短歌で、意志を伝え合う、なんて、遊ぶ風雅な発想は起こらなかった。
意志を伝えるのにも、「I」、「You」、と、はっきり、していて、これは、英語に限らず、ラテン系の言語、全てで、そうである。
以心伝心、だの、もののあわれ、だの、と、いう感覚や価値観は、発達しなかった。
谷崎潤一郎の、「陰翳礼讃」にしても、そうだが、日本では、はっきり、と、そのものズバリを言わないで、ぼかす、ことに、趣を主張しているのである。
日本人にとっては、謙譲の美徳、が大切であり、言わずに、心が通じ合うことが、日本人の美徳だった。
西洋には、そんな価値観はないから、はっきり物事を言い、自己主張することが、大切であり、喋らないと、その人間は、何も考えていない、人間と見なされた。
だから、欧米人は、積極的に自己主張する。
しかし。日本はいまだに、その感覚(言わぬ美徳)は(良くも悪しくも)残っている。
学校でも番長(←古い)や、大学でも権力のある、威張った人間が、やって来たら、下の人間は、サッと、道を開け、敬礼するのである。
権力者は何も言う必要はない。
下々の人間は、
「そんなこと、言わなくても、わかるだろう」
という社会なのである。
言葉でなく、「場の雰囲気」、「慣例」、「忖度」、で、わかれ、というのが、日本の習慣なのである。
英語に、「忖度」、あたる一つの単語が無い、のが、いい例である。