小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

パワハラは禁止すべきだけど・・・

2017-08-07 03:45:49 | 武道・スポーツ
パワハラは禁止すべきだけど・・・。

パワハラを禁止すべきことに、異論はない。

しかし、少なくとも、僕は、何度も、いじめられて、それによって、強くなった面がある。

あと、一年、我慢すれば・・・、と考えて、僕は、死にたいほどの、いじめ、に耐えてきた。

あるいは、キレて、相手に、決闘を申し込んだりした。

そこらへんを、どう対処するかは、その時の情勢による。

もちろん、いじめは、つらいが、パワハラや、いじめ、も、自分にふりかかってきた、やっかいな問題であり、問題解決能力の機会と、考えてきた面がある。

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乙武洋匡氏を「エロダルマ」と非難するのは、障害者差別発言である

2017-08-07 03:24:40 | Weblog
言葉、言い方、の問題であるが。

乙武洋匡氏は、何人もの女と不倫していた。

そのことは、道徳的に悪い事である。

だから、非難に値する。

だから、乙武洋匡氏を非難するのに、「女体満足」、というように、呼ぶのは、問題ない。

まあ、いついつまでも、非難するのも、良くないと思うが。

しかし。「エロダルマ」、という、言い方は、先天的に手足の無い障害者を、「ダルマ」、と言っているのであり、これは、差別的発言であり、すべきではない。

嫌いな人や、悪い人を、ミソもクソも、一緒くたにして、感情的になるのは、非知性的な行為である。


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日本は、「忖度」、の方が当たり前の社会である

2017-08-07 02:47:27 | 政治
日本は、「忖度」、の方が当たり前の社会である。
日本と、欧米を比べてみる。
日本は、上下関係の社会である。
欧米は、実力主義の社会である。
ヨーロッパの歴史は、ソクラテスから始まって、哲学が途切れることなく、続いてきた、(ある哲学)に対する、発展や、批判の、哲学自体の弁証法の歴史でもある。
一方、日本は、哲学というものが、明治維新で、近代になって、入ってくるまで、なかった。
その代わり、「源氏物語」、や、「枕草子」、や、「古今和歌集」、など、情緒、感情の細やかさ、が、発達した。
昔は、日本は、言葉で、相手と、会話をして、意志を、はっきり伝え合うのではなく、短歌を読み、それによって、自分の意志を、遠回しに相手に伝え、相手も、短歌を返すことによって、自分の意志(返事)を告げていた。←極めて、キザであり、もののあわれ、であり、芸術的である。
そんなことをして、意志を伝える、ということをしていた国は、日本だけである。
それは、日本人が、芸術、感情、が発達した歴史からである。
それが、しきたり、にまで、なってしまった。
ヨーロッパでは、国が接していて、(イギリスも、ヨーロッパに接しているようなものである)戦争の歴史であり、哲学の歴史であり、科学の歴史であり、一つの国で発した、哲学は、他の国にも、すぐに伝わった。
合理的、論理的に物事を考えるから、日本のように、短歌で、意志を伝え合う、なんて、遊ぶ風雅な発想は起こらなかった。
意志を伝えるのにも、「I」、「You」、と、はっきり、していて、これは、英語に限らず、ラテン系の言語、全てで、そうである。
以心伝心、だの、もののあわれ、だの、と、いう感覚や価値観は、発達しなかった。
谷崎潤一郎の、「陰翳礼讃」にしても、そうだが、日本では、はっきり、と、そのものズバリを言わないで、ぼかす、ことに、趣を主張しているのである。
日本人にとっては、謙譲の美徳、が大切であり、言わずに、心が通じ合うことが、日本人の美徳だった。
西洋には、そんな価値観はないから、はっきり物事を言い、自己主張することが、大切であり、喋らないと、その人間は、何も考えていない、人間と見なされた。
だから、欧米人は、積極的に自己主張する。

しかし。日本はいまだに、その感覚(言わぬ美徳)は(良くも悪しくも)残っている。
学校でも番長(←古い)や、大学でも権力のある、威張った人間が、やって来たら、下の人間は、サッと、道を開け、敬礼するのである。
権力者は何も言う必要はない。
下々の人間は、
「そんなこと、言わなくても、わかるだろう」
という社会なのである。
言葉でなく、「場の雰囲気」、「慣例」、「忖度」、で、わかれ、というのが、日本の習慣なのである。
英語に、「忖度」、あたる一つの単語が無い、のが、いい例である。

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残酷ショーは高校野球だけではない

2017-08-06 21:04:19 | 武道・スポーツ
「残酷ショー」としての高校野球。

(松谷創一郎)

「1週間で約1000球・・・4日間に渡るこの試合で、中京の松井投手は709球、崇徳の石岡投手は689球を投げました。また、この試合が始まる前日(8月27日)の準々決勝でも両投手は相手チームを完封し、この準決勝に臨んでいます。実は彼らは5連投なのです。・・・ひとりのピッチャーが1週間で1000球近くを投げる状況は、やはり常軌を逸してます。投手が腕を振る回数は硬式でも軟式でも同じです。いくら軟式ボールのほうが軽いといっても(註1)、下手をしたら彼らは腕に一生残る障害を抱えることになったかもしれません。 高野連は、高校野球を「教育の一環」と位置づけています。しかし、こんなことを未成年者にやらせておいて、本当に胸を張ってそう言えるのでしょうか? これは「残酷ショー」以外のなにものでもありません。」



私と同じことを感じている、数少ない、人間もいた。

私は、全ての、プロスポーツ、および、トップアスリートを、くだらない、という批判記事を、このブログで、いくつも書いている。

それは、やる選手もバカだし、観る観客も、何もやることがない暇人だからだ。

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安倍晋三の「李下に冠を正さず」、発言は、矛盾している

2017-08-05 23:27:09 | 政治
安倍晋三の「李下に冠を正さず」、発言は、矛盾している。

閉会中審査で、ますます、加計問題は、疑惑をさらに増した。

安倍晋三は、自分を正当化するために、今年の、1月20日に、獣医学部新設計画について、加計学園の加計孝太郎が、愛媛県今治市の国家戦略特区の事業者に決定したことを知ったと言った。

安倍晋三は、決定する、すぐ前に、何度も、加計孝太郎と、ゴルフや、焼肉屋で、会食をしている。



「李下に冠を正さず」、とは、「李(すもも)、の、木の下では、李を盗んで、帽子の中に、入れてると思われないよう、帽子に手を触れない」、という意味である。

この、李の木の下を歩いている人、A氏は、自分の回りが、李の木である、であるということを、知っているのである。

だから、人に疑われることは、してはならない、という戒めである。

A氏が、(何か考え事をしたりしていて)、今、自分が、李(すもも)、の木の下を通っていると、知らなければ、A氏は、平気で冠を正すだろう。

安倍晋三は、「李下に冠を正さず」、と言った。

つまり、安倍晋三は、自分が、今、李(すもも)、の木の下を通っていると知っていた、と、告白してしるのである。

↑は、喩えであって。

つまり。

加計学園の加計孝太郎が、愛媛県今治市の国家戦略特区の、獣医学部新設計画を事業者になる可能性がある、という事を知っていて、何度も、ゴルフや会食をした、ということを、自ら告白しているのである。

これは、知らなかった、という、発言と、全く矛盾する。

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