テレビで。
「時間は存在するのか?」
というのをやっていた。
僕は、「時間は存在するのか?」、ということを、ずっと前から疑問に思っていた。
もちろん、いくら考えてもわからない。
しかし、僕は、「時間は存在しない」、と、かなり前から思うようになっていた。
ほとんどの人は時間の、存在を、当たり前のこととして、疑わない。
僕は、「時間というものは、存在せず、物が変化する、だけだ」、と思っている。
たとえば。
映画館で、映画を上映していて、それを観客が見ている。
映画の中で、時間は存在している。
ストーリーが進行している。
しかし。ある時、ある場面で、映写機が故障して、あるシーンで、止まってしまったとしよう。
その後は、いくら経っても、シーンは、その場面のままでいる。
しかし、それを見ている観客は、あたかも、映画の中で、時間が止まってしまったような、感覚になる。
しかし、実際には、(時間というものが存在するのなら)、シーンは、止まっていても、時間は進行していることになる。
それ以外でも、全く動かない物を、見ていると、はたして、時間は、存在するのか、という感覚になる。
時間が存在する、というのなら、「時間」、というものを定義して欲しいものである。
定義など出来ない。
時計の針の動きなど、時間の感覚を便宜的に、知る道具に過ぎない。
動いている人間、社会、世界、があるから、あたかも、「時間というものは、存在するものだ」、と誰も疑わないだけだ。
全く動かない空間、を見ていると、時間とは、何なのか、わからなくなる。
時間とは、映写機の中に収められたフィルムのようなものだ。
映画が止まってしまって、困惑している観客たちは、「時間が止まってしまっているみたいだ。早く動いて欲しい」、と思っている。
しかし。その観客たちを、撮影している、映写機があるのだ。
それを、見ているのを、あえて、便宜的に、「神」、としよう。
あるいは、その映画を操作している物を、便宜的に、「神」、としよう。
すると。その、人間世界の、映画を見ている、「神」、は、映写機を止めてしまうことが出来る。
つまり、全く、動かない、物を見ていると、はたして、「時間」というものは、一体、何なのか、という疑問が起こる。
経験的に、その存在を信じて、疑わない、「時間」、というものを説明できなくなる。
☆
「時間」というものは、微分的に、考えてみると、わかりやすい。
人間は、「今、の一瞬」、つまり、「現在」、だけを生きている。
と言える。
もし、「時間の流れ」というものが、存在するのなら、「現在」の先は、「未来」であり、「現在」の後ろは「過去」となる。
ではその、一瞬の「現在」、とは、何なのだ?
一秒なのか?
(そんな長いはずはない)
0.1秒なのか?
(いや。それより、もっと短いはずだ)
0.00000000000000000001秒なのか?
(いや、それより。もっと、短いはずだ)
0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000001秒なのか?
(いや、それより。もっと、もっと、短いはずだ)
もし、「現在」、に、ほんのわずか、でも、「存在」が、あったなら、「時間の流れ」というものは、「存在」する、ことになる。
(時間が「存在」する、と考えている(普通の、多くの)人は、「現在」という、一瞬に、限りなく、短い「存在」がある、と考えているのだ。限りなく短い、一瞬の「存在」があり、その「存在」が、続いているから、「時間」の流れ、が、「存在」する、と思っているのだ)
しかし、「現在」、は、限りなく、0 に近い、「存在」、ではないのだ。
0 そのものなのだ。
つまりは、「時間」、というものは、「存在」しないのだ。
人間は、「物の変化」を、「時間の経過」、と、感じでいるだけなのである。
☆
「時間」というものは、金太郎アメ、と考えると、わかりやすい。
金太郎アメは、どこを切っても、金太郎の同じ顔が出てくる。
しかし、細工によって、アニメーションのように、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、という物を作ることが出来る。
この、「細工によって、金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ(A)」=「時間」、なのだ。
この、(A)は、無限に長く作れる。
その一点を切ってみると、「その瞬間」、が出てくる。
しかし、そこに現れる、「金太郎の表情」に、「厚さ」というものは、必要としないのだ。
つまり、「瞬間」に、「厚さ」というものは、「存在」しないのである。
しかし、、「瞬間」に、「厚さ」、が無くても、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、は、無限に、長く、作ることが出来る。
このように、「時間」を、考えてみれば、わかりやすい、と思う。
「時間は存在するのか?」
というのをやっていた。
僕は、「時間は存在するのか?」、ということを、ずっと前から疑問に思っていた。
もちろん、いくら考えてもわからない。
しかし、僕は、「時間は存在しない」、と、かなり前から思うようになっていた。
ほとんどの人は時間の、存在を、当たり前のこととして、疑わない。
僕は、「時間というものは、存在せず、物が変化する、だけだ」、と思っている。
たとえば。
映画館で、映画を上映していて、それを観客が見ている。
映画の中で、時間は存在している。
ストーリーが進行している。
しかし。ある時、ある場面で、映写機が故障して、あるシーンで、止まってしまったとしよう。
その後は、いくら経っても、シーンは、その場面のままでいる。
しかし、それを見ている観客は、あたかも、映画の中で、時間が止まってしまったような、感覚になる。
しかし、実際には、(時間というものが存在するのなら)、シーンは、止まっていても、時間は進行していることになる。
それ以外でも、全く動かない物を、見ていると、はたして、時間は、存在するのか、という感覚になる。
時間が存在する、というのなら、「時間」、というものを定義して欲しいものである。
定義など出来ない。
時計の針の動きなど、時間の感覚を便宜的に、知る道具に過ぎない。
動いている人間、社会、世界、があるから、あたかも、「時間というものは、存在するものだ」、と誰も疑わないだけだ。
全く動かない空間、を見ていると、時間とは、何なのか、わからなくなる。
時間とは、映写機の中に収められたフィルムのようなものだ。
映画が止まってしまって、困惑している観客たちは、「時間が止まってしまっているみたいだ。早く動いて欲しい」、と思っている。
しかし。その観客たちを、撮影している、映写機があるのだ。
それを、見ているのを、あえて、便宜的に、「神」、としよう。
あるいは、その映画を操作している物を、便宜的に、「神」、としよう。
すると。その、人間世界の、映画を見ている、「神」、は、映写機を止めてしまうことが出来る。
つまり、全く、動かない、物を見ていると、はたして、「時間」というものは、一体、何なのか、という疑問が起こる。
経験的に、その存在を信じて、疑わない、「時間」、というものを説明できなくなる。
☆
「時間」というものは、微分的に、考えてみると、わかりやすい。
人間は、「今、の一瞬」、つまり、「現在」、だけを生きている。
と言える。
もし、「時間の流れ」というものが、存在するのなら、「現在」の先は、「未来」であり、「現在」の後ろは「過去」となる。
ではその、一瞬の「現在」、とは、何なのだ?
一秒なのか?
(そんな長いはずはない)
0.1秒なのか?
(いや。それより、もっと短いはずだ)
0.00000000000000000001秒なのか?
(いや、それより。もっと、短いはずだ)
0.000000000000000000000000000000000000000000000000000000001秒なのか?
(いや、それより。もっと、もっと、短いはずだ)
もし、「現在」、に、ほんのわずか、でも、「存在」が、あったなら、「時間の流れ」というものは、「存在」する、ことになる。
(時間が「存在」する、と考えている(普通の、多くの)人は、「現在」という、一瞬に、限りなく、短い「存在」がある、と考えているのだ。限りなく短い、一瞬の「存在」があり、その「存在」が、続いているから、「時間」の流れ、が、「存在」する、と思っているのだ)
しかし、「現在」、は、限りなく、0 に近い、「存在」、ではないのだ。
0 そのものなのだ。
つまりは、「時間」、というものは、「存在」しないのだ。
人間は、「物の変化」を、「時間の経過」、と、感じでいるだけなのである。
☆
「時間」というものは、金太郎アメ、と考えると、わかりやすい。
金太郎アメは、どこを切っても、金太郎の同じ顔が出てくる。
しかし、細工によって、アニメーションのように、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、という物を作ることが出来る。
この、「細工によって、金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ(A)」=「時間」、なのだ。
この、(A)は、無限に長く作れる。
その一点を切ってみると、「その瞬間」、が出てくる。
しかし、そこに現れる、「金太郎の表情」に、「厚さ」というものは、必要としないのだ。
つまり、「瞬間」に、「厚さ」というものは、「存在」しないのである。
しかし、、「瞬間」に、「厚さ」、が無くても、「金太郎の顔が、変化する、金太郎アメ」(A)、は、無限に、長く、作ることが出来る。
このように、「時間」を、考えてみれば、わかりやすい、と思う。