小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

僕の戦争的な体験

2015-10-14 22:54:17 | 考察文
僕の戦争的な体験は、梶原一騎の逮捕である。

そんなこと言っても、信じてもらえない気もするが、僕にとっては、紛れもない、事実なのである。僕にとって、梶原一騎の、漫画の多くの主人公は、僕に、とって、「神」そのものだった。特に、好きなのは、「愛と誠」の、太賀誠。「夕やけ番長」の赤城忠治。「カラテ地獄変」の大東徹源。「巨人の星」の星飛雄馬。「青春山脈」の火野兄弟。「英雄失格」のカール・シュミット。「明日のジョー」の矢吹丈。などか,僕の、「神」だった。
彼らの、根性、度胸、不屈の精神、死をも恐れぬ勇気、などの精神が、僕の、「神」だった。
それらの精神は、僕が持っているものではなく、持っていないものだった。だから、僕が、生きる上で、それらの精神は、絶対に、なくてはならないものだった。それらは、僕の座右の書だった。当然、そういう作品を書く、原作者の梶原一騎も、そういう立派な精神を持っている、優れた人間だと尊敬した。作品の主人公の精神と、作者の精神は、同じものであるはずだ、と思っていた。しかし、梶原一騎が、編集者を殴って、逮捕された時、僕は、ガンを告知されたようなショックを受けた。その後、梶原一騎が、アントニオ猪木を監禁したりしたことや、暴力団との、つながりがあること、などを知った。僕の中で、「神」であった、梶原一騎が、ガラガラと崩れていった。当然。主人公の精神=作者の精神、と思っていたので、僕は、梶原一騎の作品を、愛せなくなってしまった。自分の崇拝する「神」が、いなくなってしまう。こんなことが、宗教者に起こったら、信者は、発狂してしまうだろう。
もちろん、僕も、精神に変調をきたし出した。しかし、僕にとって。根性、度胸、不屈の精神、死をも恐れぬ勇気、などの、梶原の精神は、僕になくてはならないものだった。
なので、僕は、梶原一騎を捨てて、神風特攻隊、など、別のものに、それを求めた。
しかし、精神の変調は、おさまらない。梶原一騎の漫画を捨てるわけにも、いかない。しかし、もう、読むことは、出来なくなってしまった。それで、それらは、戸棚の上にしまった。
しかし、僕は、それ以前にも、非常に苦しい経験をして、それを乗り越えてきたことがあるので、何とか、心を落ち着かせようとした。僕は、時間が経って、不安定な気持が、いつか、落ち着いてくれることを、待つことにした。過去の苦しい経験でも、待つことによって、時間が解決してくれる経験をしたことがあるからだ。
その作戦は成功した。待って、そして、梶原一騎という人間が、わかってくるにつれ、僕は、梶原一騎という人間を、そして、梶原一騎の作品の主人公たちを、再び、愛することが出来るようになったのだ。しかし、それには、二年くらいの歳月を要した。梶原一騎という、作者の精神は、本物なのだ。と、わかったのである。ただ、大人でありながら、子供のような感性をもっているのだと、わかったのである。それが、わかってからは、僕は、梶原一騎、および、梶原一騎の作品の主人公たちを、一層、愛することが出来るようになった。

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三島由紀夫の「金閣寺」

2015-10-14 04:41:38 | 考察文
三島由紀夫の傑作と言われている小説、「金閣寺」の意味が、正確に、わかる人は、どのくらい、いるだろうか?

ちょっと、わかりやすい、説明があるので、参考に書いておこう。

2008年5月12日に、このブログで、僕は、「逆説反応」と題して、書いたものがあり、それが、小説、「金閣寺」を理解する参考になると、思う。

そのため、2008年5月12日に、書いた、「逆説反応」の記事を、コピペしておこう。


「逆説反応。
精神病院の中には、さらに、個室が数部屋ある。ここは、トイレとベッドしかなく、拘置所より、環境が悪い。テレビもない。患者があばれて物を壊す可能性があるからだ。鉛筆やシャープペンも、禁止の場合がある。尖ったものは、自傷の道具になるからだ。もちろん、自傷の危険が無いと判断されたら、鉛筆は、許可になる。
きれいな個室もあるが、きれいでない個室もある。民間病院は、経営が苦しく、建物を改修する費用がない所が多いからだ。
さて、個室が適応と判断された患者は、重症の患者なのだが、そういう患者には、奇妙な、最悪な事をする場合がたまにあるのだ。トイレの水で顔を洗ったり、自分の便を食べたり、などである。偽善的な事は、あまり言いたくないが、そういう行為は、本当にやりきれない。患者がかわいそうである。しかし、そうする原理は、容易にわかる。これは、何も精神科の患者だけでなく、一般の人でも、ある苦しい状況に置かれたら、起こりうる感情だ。しかし、その原理を書いたものが、見当たらないので、私は、そういう行為を、「逆説反応」と名づけた。これは、そう難しい心理ではない。患者は、してはならない最悪の事をしてしまうのである。これは、精神が追いつめられた時は、落ち着いてものを考えられないから、「してはならない」行為を、「してはならない。してはならない」と、思っている内に、そのタブーが、かえって強迫観念になってしまうのである。患者は、その強迫観念に悩まされつづける。そして、その観念がどんどん強くなって、患者を苦しめるのである。もう、患者は精神的に耐えられなくなってしまう。そこで、「してはならない」ことを、する事によって、精神の苦しみが、解放されるのである。」

「逆説反応」とは、僕が、かってに、つけた名称で、一般的にはない。

このように、してはならないことを、しないでいると、想念がどんどん、大きくなっていって、患者を、どんどん苦しめていくのである。それで、患者は、その想念の、苦しみから、逃れたくなり、大便を実際に、食べることによって、現実を実感し、想念の恐怖を壊すのである。

この心理は、金閣寺の美しさの想念が、どんどん、大きくなって、主人公の溝口を、苦しめ、溝口は、その苦しさから、逃れるために、金閣寺を焼く、決断に至った心理と同じである。

だが、小説、「金閣寺」の意味は、それが、全てではない。

もう一つ、重要なものがある。それは、太平洋戦争である。主人公の溝口は、太平洋戦争で、アメリカが、爆撃によって、金閣寺を焼いてくれることによって、金閣寺の恐怖から、解放されることを、期待した。

そして、太平洋戦争によって、自分は夭折する運命にある、と、ほのあまい期待をしていた、三島由紀夫が、終戦によって、生きなくてはならなくなった、自分の強い経験が、小説、「金閣寺」を書く、強い動機になっているのである。

だから、戦争を経験しなかった、戦後生まれの人には、「金閣寺」は、理解しにくいのでは、ないかと思う。

まあ、もっとも、もちろん、私も、戦後、生まれの人間ではあるが。

しかし、私は、戦争ではないが、戦争的な体験をしている。ので、その類推で、戦争をある程度、推測できていると思っているのである。

つまり、自分の思想が、全部、否定されてしまうような、そんな発狂しそうなほど、苦しい経験をしているのである。

そして、内向的で、現実の世界ではなく、観念の世界に生きている、僕も、観念が、どんどん大きくなって、耐えられなくなると、ときには現実に触れてみよう、と思って、少しは現実に触れているのである。

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