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小説家、反ワク医師、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、反ワク医師、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

マネーの虎

2011-12-10 05:22:59 | 考察文
マネーの虎。という番組があったのはほとんどの人が知ってるだろう。私はあの番組が嫌いだった。出資してるヤツも、資金を欲しがってるヤツも。私は、「苦労して、辛抱して、偉くなる」とかいう、古くさい人生観が嫌いである。資金を欲しがってる奴らが本当のやる気があるとも思っていない。事業で成功するには、徹底的に世の中のニーズを知ろうとなくてはならない。どうしても、わからなければ、自分がニーズを作り出すしかない。事業は、世間の人の心を読むという心理戦である。それをしないで、単に努力しているだけの人は、本当のやる気があるとは思わない。やはり他人に出資してもらっているという立場だと、甘えが出来てしまう。全て自己責任、失敗は死につながる、という状況だと、アドレナリンの分泌量が違ってくるだろう。
確かにアイデアの豊富な人と、そうでない人はいる。本田宗一郎などアイデアの宝庫である。その本田宗一郎ですら、「人間、困らなければアイデアは生まれない」と言っている。それと同じように、人間、死ぬほど困れば、アイデアの貧困な人でも、アイデアは生まれる可能性が十分、あると思う。からである。

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父親

2011-12-10 04:23:26 | Weblog
父親が、何か腫瘍ができたから、優しい言葉をかけてくれ、と母親が言ってきた。当然、私は無視している。父親は、ちょっと信じられないくらい業の深い人間なのである。さんざん横暴のかぎりを尽くして生きてきた。その言葉の汚さといったら、よくぞ、こんな汚い、酷い人を卑しめる言葉を言えるなと、感心するほどである。私は父親の暴君ぶりに耐えられず、何回も自殺を考えた。死んでくれたら実にありがたい。ローンで立派な家を建てたのに、歳をとって、本土は寒くて、庭の手入れが面倒と言って、家を売り飛ばし、温かい沖縄の、首里城に最も近い、最もいい環境のマンションに引っ越した。私が沖縄を嫌いなのは、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、で、父親と母親が沖縄に住んでいるからである。私はセンチメンタルなのが大嫌いである。安っぽいテレビドラマは、全てセンチメンタルである。人が人を許す、という行為は簡単である。気持ちもいい。しかし。さんざん横暴のかぎりを尽くしておいて、歳をとったら、泣きつく、ということを平気で要求することに、恥ずかしさを感じないのだろうか。私なら、とても、そんな恥しらずなことは出来ない。人に厳しくするなら、自分にも厳しくするべきである。母親も横暴のかぎりを尽くしてきたが、歳をとって、猫なで声になった。もちろん私は親の葬式なんかに行かない。親の死に目など見たくもない。だから、何を言ってきても無視している。少しでも不快なことを言うと、すぐに豹変して、「誰が育ててきてやったんだ」と恩着せがましく怒鳴り散らすことは目に見えている。

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保健所

2011-12-10 03:52:57 | 医学・病気
以前、神奈川県の保健所の所長の募集があったので、応募したことがある。保健所の所長は、医師でなくてはならないのである。医者が嫌いな私には、いいかもしれないと思ったのである。しかし採用されなかった。もっとも、話を聞いているうちに、あまり乗り気がしなくなってもいったが。保健所の所長は、二年ごとに、場所を変わらなくてはならないのである。あまり遠ければ、引っ越すこともしなければならない。なぜ、二年ごとに変わるかというと、役所は、感情を入れずに、地域を監督するようなことが多いのだが、長くやっていると、どうしても、感情が入ってしまって、馴れ合いになって、特に親しくなると、ちょっと問題があっても、「まあ、いいでしょう」ということになりやすいからである。そうすると、相手も、「どうもありがとうございます」と言って、何か、金や物でお礼をしたくなるから、馴れ合いがますます進んでしまうからである。これは、悪意がなくても、人間の自然の感情で起こってしまうものである。だから、二年ごとに場所を変えなくてはならないのである。

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量質転化

2011-12-10 03:35:00 | 武道・スポーツ
量質転化とは、運動や勉強において(特に運動だが)量を繰り返したくさん練習することによって、技の質を上げようとすることである。これは運動上達の基本である。ただここで注意が必要である。がむしゃらに、ハードトレーニングをしていれば、技の質があがる、とは言えないのである。体力はつくだろうが。力で強引に勝つ、という実力はつくことがあっても、技術の上手さは上達しない、ということも起こるのである。では、どうすればいいか。それは、何を意識して練習するかである。技を上達させようという意識をもって、続けていれば、技は上達しうる。しかし、ただ単に勝つことだけを意識して練習していても、勝てるようにはなれても、技は上達しない、ということも起こりうるのである。特に、柔道では、相手の力を利用する武道だから、意識をしっかり持っていないと、強引に力で相手を倒すだけの柔道になりかねない。

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工藤公康

2011-12-10 02:31:56 | 武道・スポーツ
工藤公康投手が、引退した。現役三十年、投げ続けた。すごい。しかも、肩の痛みのための、引退だから、それがなかったら本人はまだやる気があった。長い間、ご苦労様でした。

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疾れ1逆ハンぐれん隊

2011-12-10 01:29:08 | Weblog
「疾れ1逆ハンぐれん隊」とは、五木寛之の昭和60年頃の小説である。たまたま、リサイクル図書にあったので、どんなものかと思って持って帰った。これがすごく面白いのである。タイトルから、あんまり期待してなく、ずっとツン読だったが、読み始めると、非常に面白い。純文学ではなく、エンターテインメントの小説である。ストーリーやシーンの多い小説であるが、不思議なことに会話文が圧倒的にほとんどを占める。それでいてシーンを見事に表現しているのである。会話文というと、一般的には、ある事柄についての討論のやりとりだか、この小説では、会話文によってシーンを作り上げているのである。文章も実に読みやすい。地の文も会話文も、凝ってなくて、さっぱりしているが、だからといって、味のない文章ではない。こういう小説なら、簡単に書けそうに思えてしまうが、いざ書こうとすると、簡単には書けまい。というか、わからない。小説創作のお手本になる小説である。五木寛之という作家の底しれぬ才能をあらためて感じさせられた。この小説の原理をもっと深く研究してみたい。

79歳と高齢だが、まだ新聞で「親鸞」を連載している。よほど親鸞が好きなのだろう。あまり長すぎる長編より、以前読んだ、コンパクトな「親鸞」の方が私は好きである。五木寛之の代表作は、何といっても、「青春の門」だと思うが、「青春の門」は、作者が信介をいじめ過ぎているようで、信介が可哀相だと思った。だが、九州から信介を追っかけてきた織江が、すごく可愛い。信介は、何か松本零士の「男おいどん」と似ている面があるように思う。ともかく読者に、どうなるのかとハラハラさせ、幸せになって欲しいと思うが、作者は、主人公を幸せにせず、いじめるのである。しかし、売れるために、意図的に、そういう手法を使っているとも思えない。

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