小説家、精神科医、空手家、浅野浩二のブログ

小説家、精神科医、空手家の浅野浩二が小説、医療、病気、文学論、日常の雑感について書きます。

頭脳王

2011-12-30 22:32:40 | 考察文
テレビで、日本で最高の天才、秀才たちの頭脳王、というような、難問の知識や頭脳を競う番組をやっていた。東大医学部の学生や京大医学部の学生や、東大法学部主席卒業の弁護士や偏差値80以上の高校生とか、が出ていた。以前、高校生の秀才達の同じようなクイズ王を見たことがある。見ている芸能人は、「すごい」「すごい」と賛辞してばかりいた。

私の感想。「別にすごいとは思わない」である。ただ、そう言うお前は、あの難しいクイズが解けるのか、と言われたら、答えられない方が圧倒的に多い。というより、ほとんど答えられない。だが、なかには、答えられる問題もあったが。彼らのモチベーションは何か、といったら、まさかクイズで優勝するためでもあるまい。高校生のクイズの時は、クイズに答えるために、知識を詰め込んできたという人が多かったように思うが。私がみうける所、彼らは、記憶力がいい。記憶をつかさどる海馬、側頭葉が先天的に発達しているのであろう。それと、物事に対する好奇心である。何事にも理論、理屈がある。それがわかると面白い。だから何事に対しても興味を持つのである。私が医学部の時には、そういう人はいなかった。というか、見受けなかった。奈良県立医科大学は、大阪大学医学部を落ちて、第二志望で入ってきた人もいるから、私は秀才は数多く見ている。自由学園の時の同級生で二人、この手の人(何事に対しても好奇心旺盛な人)が二人いた。しかし二人とも、ぱっとしない仕事をしている。知識は、何事かをなすための手段、道具である。物事に対する好奇心の欲求にまかせて、ハマッてしまうと、宝の持ち腐れとなってしまう。秀才や天才といえども、社会人になれば、医学なら医学、数学なら数学と、自分の専門を一つの分野の絞らなくてはならない。何でも知ってる屋、なんて職業は無い。まあ、知識が多ければ多いほどいいにこしたことはないが。知識が多くて、それが、そのまま仕事に役立つ仕事は、といえば、それは小説家、や作家だろう。

私も、大学の時、文芸部の友達で、秀才がいたが、(いまだに年賀状をやりとりしているのは、彼一人である)彼は、大変な読書家で、「もうこの世に読む本なくなったー」とわめいていたが。彼は、知識量が多く、また教養も洗練されたものばかりだが。しかし彼は、頭脳王の人達と違って、芸能界とか俗っぽいことには、興味を持っていない。私も、俗っぽいことには興味がない。ので、あまり知らない。

ずっと以前、シナリオ教室に10回出たことがあるが、ある生徒が、「刑事ドラマを書きたいけれど、刑事や警察の捜査の仕方を知るには、どうすればいいんですか?」と先生に質問した。先生は、「それは、自分で調べるしかないですよ」と言った。ただその後に一言、「調べるのが面白くなって、それにハマッてしまってシナリオが書けなくならないように」と皮肉っぽく言っていた。

小説を書くためには、そのための勉強として、小説を読むのは有効なことである。しかし注意が必要である。読む面白さにハマッてしまうと、小説家ではなく文芸評論家になってしまう。そうやって小説家を志したのに、結局は読書家で終わってしまった人は数多くいるだろう。芥川龍之介は、厖大に知的好奇心から読んだが、小説家になった。しかし正宗白鳥は教養人として文芸評論家になった。

もう一つ。ゲーテが言っているように、「人間は知らないことだけが役に立つのであって、知ってしまったことは、何の役にも立たない」という面がある。だから、あえて知ろうとしない、という変な事も必要な場合もあるのである。「魅力は不可知にあり」である。宗教の信者は、宗教にわからない所があるから、そこに魅力を感じて、信じているのである。私のように宗教の原理を全て理解できる人間にとっては、宗教は何の魅力も無い単なるしらけた事実になってしまうだけである。

私は、医学部を卒業して、何を専門にするか、という時点で、産婦人科は絶対、やらないと決めていた。なぜって、私は小説で女を描きたいから、産婦人科医になんかなったら、女を描けなくなってしまうと思っていたからだ。渡辺淳一も自伝「白夜」で、そういう心境を書いている。

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点と線

2011-12-30 10:20:55 | Weblog
点と線、といっても松本清張の小説のことではない。バッティングのことである。青木宣親選手は、バッティングは、面で打つ、といっている。つまり、ボールのラインに合わせてスイングすると言っている。こうすれば、打点が少し前後しても、バットにボールが当たってくれる。(ちなみに私はバッティングセンターで、面で打っている)一方、内川聖一選手は、そうではない。彼は、バッティング理論の基本である、ダウンスイングで打っている。そして打てる。どちらかというと、青木宣親選手の面で打つ、という方法の方が、新しいような感じがする。内川選手は、この違いについて、左バッターは面で打った方がいいが、右バッターは点で打った方がいい、と言っている。が、これには疑問を感じる。バッティングには右も左も、関係ないはずだ。ちょっと内川選手は、単純というか、いい加減な所が見受けられるように感じるのだが、もっともそれが、神経質にならない、いい性格でもあると思うのだが。その説明はちょっと雑だと思う。

私はこう思う。つまり内川選手は、ヒットメーカーであり、打率が高い。内川選手は、どんなコースの、どんな変化球でも、打てるし、打っている。面で打つのは、ストレートに対して効果的だと思うのである。バッティングセンターのボールはストレートしかこない。しかし変化球に対しては、面で打とうとすると、かえって打てないだろう。変化球に対しては、当たる瞬間の点をとらえられるか、どうかが勝負だろう。だから、内川選手のように、どんな球でも打つタイプのバッターは、点で打った方が打てるのだろう。青木選手の、面で打つというのは、ストレートに対しては、有効だが、変化球に対しては、どうなのだろうか。変化球も面で打つ、ということが出来るのだろうか。

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