私たち衆生はどうしても相対的認識の下に物を見ています。
善いといえば悪いものが必ず有(在)り、悪いといえば必ず善いものが有(在)るものです。
迷いが有(在)るといえば、悟りが有(在)る等々。
私たち衆生は「自分」を立てて相対的な物の見方をしているために、「ものを認める」という自分の習慣がなくならないという事が有(在)ります。
「自己を忘れる」という事は、善悪、好嫌、上下というものがきれいになくなる事です。
元の私たち衆生の「本性(ほんしょう)自性」は「無性」なのです。
「本性自性に成れる」その時が有(在)るのです。
実に「不思議」な事ですけれども、善い事は、善い事で了っているのです。
分からない事は、分からない事で「円満に成就」しているのです。