活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

人類の究極の課題2

2019年09月20日 | その他

人間(にんげん)は、この矛盾に永久に悩まされて行くのです。

これは人類発生以来の悩みです。

 

この問題は、文化の発展につれてますます大きな問題となるものなのですが、

これは人間が人間として人間的な態度でしては、決して解決できるものでは

ないのです。

 

この問題は私たち衆生の凡てがすでに経験して今日に及んでいるはずです。

それかといって、この問題を放置しておくことは益々出来ないのです。

 

そこで人間はこの矛盾に苦しむのです。

これが人間の「究極の課題」となっている一大問題なのです。


人類の究極の課題1

2019年09月19日 | 法理

「今を今の外」には求めようがないのです。

求めなくても「今」なのです。

 

然るに私たち衆生は、これに対して色々に疑いを起こし、この疑問を解明

しようとしてあらゆる手段を尽くして、この問題に取り組んでいるのです。

 

凡てのものは、それぞれにおいてそのもので解決済みのものです。

 

その外にはありません。

 

この理由によって、万物は存在していて更に疑う処はないのです。

又これほど確かな「真実」はないのです。

 

如何なる私たち衆生の「結論」によっても決定的な無条件での満足は得られない

のです。

何故ならばそれは「その思うこと」が妨げているからです。


人間(にんげん)はこの「無条件で満足出来る道」を求めて止みません。

然るになかなかこの目的が達し得られないのです。


新しい秩序(まとめ)7

2019年09月18日 | 法理

時代は二十一世紀に入っていますが人間社会を見るとき、国家間民族間の対立、

格差社会、法治国家でありながら混沌とした紛争が絶えません。

 

「宗教」もまた本質から遠く離れ、現実を生きる人々に「無力感」が漂っています。

 

今こそ人々が「無明(自我、妄想)」の実態や煩悩や「業苦(ごうく)の根源である

貪顚痴(とんじんち)」や万物の本質を見定めてみる必要があるのではないでしょうか。

 

二十一世紀は「宗教の時代、こころの時代」といわれて久しいですが架空の神や仏を

理想として求めるのではなくて、「現実の自己の有様を探求」していくことが最も

大切なことではないでしょうか。

 

 

仏教とは「無明(自我、妄想)、煩悩、貪顚痴そのまま」が私たち衆生が求め続けた

神や仏の相(すがた)そのものであると説く教えなのです。

 

そして私たち衆生が自ら仏の教えが正しいということを「証明」することが出来る

教えなのです。


新しい秩序6

2019年09月17日 | 法理

道元禅師は中国からお帰りになって、一体何を言われたかというと、

「柔軟心(にゅうなんしん)を得たり」と。

 

「柔軟心」とは柔らかい心ということです。

 

「水自体」は変化していることは知(識)りません。

水の性は絶対に変わりません。

水のままで色々な変化があるということです。

 

私たち衆生も「縁」に応じて様々な変化を繰り返しながら、そして「氷が水に成る」

ように精進していっていただきたいと思います。

 

必ず「氷」は溶けるものです。

「氷」は溶かさなければいけないのです。

 

それには「坐る」ことです。

そうすれば「氷」が溶けて必ず「水」になる時節があります。

 

それを「悟り」というのです。


新しい秩序5

2019年09月16日 | 法理

凍っている自分を何によって溶かし打ち砕いていくのか、そして元のさらさらと

ながれる「水」にすることが出来るのか、これには「宗教の力」しかないのです。

 

一度凍ったわけですから努力すればこれは必ず溶けます。

溶けなければおかしいのです。

 

何故ならば「凍っていなかった自分」が存在していたからです。

 

「凍った水」が溶けた状態、そしてさらさらと流れる状態を「悟り」といって

いるのです。

 

私たち衆生は何時の間にか自分自身で「水の性質」というものを凍らせて

しまっているのです。

 

ですが、それをどうにかして打ち砕いたり、「水」にする方法をおしえて

くれる宗教者がいなかったのです。

 

「実証する宗教」がなかったのです。


新しい秩序4

2019年09月15日 | 法理

「新しい秩序」とは従来の人間の尺度(物差し)というものを圧し折る必要が

あるということです。

 

人間というのは何時までたっても「既知の知」のなかでの繰り返しの生活

しかしていません。

 

如何してもこの世の中には「新しい秩序」が必要なのです。

それには「問題意識」を持たなければいけません。

 

「問題意識」とは必ず「自分自身の法」に目醒めなければならないという

強い心の決定(けつじょう)です。

 

狭い自分で物事を判断していては「新しい秩序」は生まれて来ないという

ことです。

 

そこで「新しい秩序」を求めるには「宗教」というものが必要になって

来るのです。

 

私たち衆生は本来「水」のようなものです。

「縁」に応じてどのようにでも自由自在に変化していけるものです。

 

只、それが今、凍っているのです。

だから融通がきかないのです。


新しい秩序3

2019年09月14日 | 法理

「法」というものは誰のものでもありません。

自分というものを忘れてそれを本当に自分のものにした人のものです。

 

おシャカ様が体得された「法」を何時までも学んでそれを「仏法(仏教)」

といって「おシャカ様の法(様々な宗派の教え)しかないというような狭い

考え方、小さな考え方の時代」はもう過ぎました。

 

これからは「おシャカ様の法」に因って私たち衆生が「自分自身の法」に

目醒めるということになっていかないと、これからの「新しい秩序」という

ものは出来て来ません。

 

これから世界(人類)をまとめていくものは所謂「法」というものです。


新しい秩序2

2019年09月13日 | 法理

世界の人口が約八十億人くらい居るといわれています。

 

私たち衆生一人一人は八十億分の一人です。

 

かけがえのない自分ですから本当に「自分自身」に成らないといけないわけです。

 

「他人の為の私」であってはいけないのです。

 

このことは各人が徹底した「個」と言うものに成らない限りは、私たち宗教に

携わる者は、助けてあげたいと思っても助けてあげられないのです。

 

「徹底した個」というのは所謂「自分の主人公」です。

 

私たち衆生は「自分の主人公」はいつも自分の内にいるか絶えずそのことを

自分自身で点検していく必要があると思います。


新しい秩序1

2019年09月12日 | 法理

しばらくの間は、「仏法(仏道)」という「おシャカ様の法」を借りて

「自分自身の法」に目醒めるように務めていくのが「仏道の修行」という

ものです。

 

「孫悟空」のお話をよく御存じだと思いますけれども「仏法(仏道)の中で修行」

していてもそれは駄目なのです。

 

ですから私たち衆生が「仏法(仏道)の中」で分かったとかわからないとか

「法(道)」だとか「悟り」だとかいっても、それは「仏法(仏道)の中」のことだけです。

 

それでは決して「自分自身の法」には成りません。

 

「如何にしたら仏法(仏道)を今の自分のものにすることが出来るか」という

ことが問題なのです。


結論という土台2

2019年09月11日 | 法理

「仏教」はどちらかというと、そういう「結論としての土台」が有(在)っては

いけないと説いているのです。

 

先ず「結論」として「苦集滅道」というようなものを提示しておいて、そして

この「結論としての土台」を外してしまうのです。

 

何故ならば「土台」を外さないと「元(根)」が残るからです。

 

「土台」というのは「ひとつの立場」です。

 

「最初から立場というものは執ってはいけないのだ、立場は認めようにも

認められないのだ」ということが仏教の教えです。