活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

結論という土台1

2019年09月10日 | 法理

この頃では「学問」と言うものが非常に発達してきて「物」というものは

最初もない終りもない」ということが言われています。。

 

その通りです。

しかし、それは「結論」です。

「証明」はされていません。

 

「宇宙」はどうして出来たのかということは、いくら考えても「人の考えの範囲」

を出ることはありません。

 

すでに何千年も昔から考えて来たところのそういう人間の知恵の中をでることは

ありません。

 

私たち衆生は繰り返しあたかも新しいことが発見されたごとくに何千年も追究

してきました。

 

いわゆる「学問」というのは「結論を土台」として積み重ねていっている

わけです。

 

「結論が有(在)る」ということです。

 


人生に於ける最も大切なこと4

2019年09月09日 | 法理

この身体も精神生活も「五官(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)」の働き

というものも凡て約束(規則)を超えている存在者です。


あらゆるものを超え切って存在しているのです。


何も知(識)らなくても「此の物(身体)」は過不足なく一杯に生活しているのです。


私たち衆生がどのように思ってもどのように考えていてもそういうことに

関係なく否でも応でもそれが「そのまま」直に私たち衆生の生活なのです。


これが「おシャカ様の考え」なのです。


「今の事実」を体得された上の教えです。


それを私たち衆生に「そのまま(五官のまま)」そういう大きな働きをする

「存在者それ自身」であるといういことを、おシャカ様は教えられたのです。


人生に於ける最も大切なこと3

2019年09月08日 | 法理

「眼自体」は自分が気に入ってもいなくても「縁」に応じて自在に活動

しています。

 

そんな「事実」が有(在)ることを観察してみたことがありますか。

 

此の「眼」に写ったものを世界とか人間とか、社会とか物とか言っています。

 

すべて「此の物(眼球)」の上に現われた存在を問題にしているだけのことです。

 

それなのにそれが自分の考え方に相応しい、気に入ったとか気に入らないとかいって

それを使おうとするから直に大きな作用ではなくて小さな作用になってしまうのです。

 

「自己中心の作用」になってしまうのです。

 

ですから、この「眼球」に習った生活をすれば苦悩も煩悶もなくなってしまうのでは

ないでしょうか。

 

全てのものには「こうしなくてはならない」という「決まり(規則)」がないのが

人及び物の本質なのです。

 

「ものの本質」というものには約束(規則)というものはないのです。

私たち衆生の身体はそういうものなのです。

 


人生に於ける最も大切なこと2

2019年09月07日 | 法理

地球上に存在しているものは、皆全て善くも悪くもなく「ただ事実そのもの」

であるということです。

 

「存在事実」に変わりはないのです。ですが「物そのもの」は使い道によって

善い悪いといわれるまでのものなのです。

 

この善いでも悪いでもないのが「本当の存在」です。

 

それでは、人間の存在がどのようにおおきな「作用(さよう)」をしているのか

私たち衆生に具わっている「眼(まなこ)」を例にとって考えてみたいと思います。


人生に於ける最も大切なこと1

2019年09月06日 | 法理

人間と書く「自我」を認めて、「自己中心の観念」で凡てを取り扱うという

ことは誤りであるということです。

 

そういう自己中心の考えを超えて本当に大きな働きをするのは実際は

「人生そのものの真相」であるということです。

 

何故ならば仮に地球上の全ての物を横一列に並べてみても地球上凡ての

存在というものは人間の為に有(在)るのではないということです。

 

人間もこの地球上に有(在)る唯一の存在者だという事です。

 

人間の凡ての感覚を「六感」といいます。

「六感」というのは「視、聴、嗅、味、触」の五官と俗にいう「第六感」

といわれる心の働きをいいます。

 

この「六感」は最初から条件が無いのがほんとうです。

条件が有(在)るということは、自分にひとつの考えを持つから物に対して

善し悪しが起こるのであって、物に善し悪しが有(在)るのではないのです。

 

只、使い道によって暫く善い悪いという事が出て来るまでのことなのです。

「物そのもの」は善いでも悪いでもないのです。


最終的課題4

2019年09月05日 | 法理

所謂認識自体が認識自体の自在なる働き(活動)のために惑わされてそれから

一歩も出ることが出来なかったことに気付かれたのです。


今日の私たち衆生もこの誤りを知(識)らずに「識の誤り」に惑わされているのです。


この発見こそがおシャカ様の偉大なる前人未到の田地であり、「人類の苦の源」を

発見する鍵だったのです。


私は宗教に携わる一人として「現実」を考え「未来」を想うとき「仏法(仏道)」

を如何に「令法久住(りょうぼう くじゅう)〈久しくこの世に住まらしむる)」

せしめるか自分に向かって常に問題提起しています。

 


最終的課題3

2019年09月04日 | 法理

文化の発展につれて、この問題は益々大きな問題となるものですが、これは

人間が人間として人間的な態度のままでは決して解決出来る問題ではないのです。


しかし、その問題を放置しておくことは益々できないのです。


そこで人類はこの矛盾に苦しむのです。

これが「最終的課題」となっている一大問題なのです。


仏教ではこの問題の起こる源を「根本無明の煩悩」といっています。

この「根本無明の煩悩」が滅しない限り苦悩を完全に取り払うことは出来ないのです。


今日までの問題は、凡そ人間特有の「無明の源である認識」をただ徒に人間が

「認識の上にあって認識を問題にしていた」ということにおシャカ様は気付かれたのです。


最終的課題2

2019年09月03日 | 法理

今を自分自身に置き換えても同じことが言えます。

然るに私たち衆生はこのことに対して色々に疑いを起こし、この問題を

解明しようと、あらゆる手段を尽くしてこの問題に取り組んでいるのです。


如何なる問題をどのように論じていても如何様に立派な論を立て、結論を

出してみてもこの、人の立てた結論によって決定的な無条件での満足は

得られないのです。


何故でしょうか。


それは「認識(その思うこと)」が真の満足を妨げているからです。


人類の凡てがこの「無条件で満足できる道」を求めて止みません。

然るになかなかこの目的が達し得られないのです。


人類はこの矛盾に永久に悩まされていくのです。

これが人類最大の悩みです。


人類発生以来の悩みです。


慚愧(ざんき)2

2019年09月01日 | 法理

「外愧」は、ひとに対してどうであろう、人に対して恥ずかしいことがないか、

その通りに万事に就いて、人に嗤われる様なことがあってはいけない、何事に

よらず人の偽る事が出来なくてはなりません。


そこで「慚愧」とは、内外の恥で何でも恥ずかしい様な事はしないという

事です。


先ず「恥を知る」という事は、万事の上に及ぶという事を御承知ありたい

ものです。