道元禅師の正法眼蔵の中に「仏道をならうというは、自己をならうなり、
自己をならうというは、自己を忘るるなり」とお示しになった文言(もんごん)
があります。
「仏道をならうというは、自己をならうなり」の「自己」とは、因縁生に
因ってつくられたところの「無自性」ということです。
ですから、「中心のない、どこにもつかみどころのない自己」ということです。
これを、「本来無自己」といっています。
その「自己」を自分で見つけ出すために、中心のないどこにもつかみどころのない
(自性のない)無自性にならいなさいと、いっているのです。
それを「自分のものにしなければいけませんよ」といっているのです。