活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

理性について

2019年01月21日 | 法理

「今の事実」は私たち衆生の上にきちんとあります。

「今の事実」に徹するには「我見」さえ捨てればよいのです。


はっきりと自分で「我見」を捨ててみれば「救われた」という事が自分で

分かるのです。


私たち衆生には「理性」という自分を誤魔化すことの出来ない「心」があ

るはずです。


それはそうではありませんか。

自分を瞞(だま)せば、瞞したということまでみな知(識)っています。


そういう心がはっきりしているのですから、今まで分からないといってい

るのも「本物(実物)」を知(識)らないのですから、分からないのは当然の

ことなのです。


しかし、「理性そのもの」がひとたび「本物(実物)」を見れば今度は「理性」

が迷えといっても「理性そのもの」は「本物(実物)」を知(識)っているの

ですから迷わないのです。


「仏教という宗教」は、そういう素晴らしいはっきりした教えなのです。


「この法」とは4

2019年01月20日 | 

正法眼蔵は、道元禅師の御著書として有名ですが、その語源の出典を遡れ

ばおシャカ様になります。


原文を紹介します。


「吾に正法眼蔵 涅槃妙心 実相無相 微妙の法門あり 不立文字

(ふりゅうもんじ) 教外別伝(きょうげべつでん) 摩訶迦葉(まかかしょう)

に付属す」


ですから、道元禅師の正法眼蔵という御著書は、おシャカ様がお言葉に

された正法眼蔵とまったく同じ内容であり、同じ性質のものであることを

御理解いただきたいと思います。


「この法」とは3

2019年01月19日 | 

「この法」はどこにでもあるものですが、「それそのものが法」であると

指導する人がいない為、「法の中」に生活していながらも気が付かないと

いうのが現状です。


又、正しく ”法” を説ける指導者に欠けている為に、修行が徒に「形骸化

した”法”」のみを求めることに終始したり、修行がその”法”を得る手段や

方法に終わってしまうという傾向になりがちです。


「この法」とは2

2019年01月18日 | 

「この法(人間を含めた形のある物、形のない物の存在)」には正しいものも

正しくないものもありません。


そういう在り方のものではありません。


「この法」というのはどこにでもあるものです。

アジア独特のものではなく、地域に関係なく、人種・文化・思想や言葉に

左右されることなく世界中どこにでもあるものです。


「この法」は片寄り様がなく、穢れることもなく、生まれることも、滅する

こともありません。


「この法」とは、今の私たち衆生のすべての様子のことです。

自分を含めて一切のものが「法」なのです。


「この法」とは1

2019年01月17日 | 

道元禅師「正法眼蔵」に曰く、

「この法は人人(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといへども、いまだ

修せざるにはあらはれず、證せざるにはうることなし」と。


「この法」とは、ありのままの状態、自分の今の事実という事です。


「人人の分上」とはそれぞれの人がそれぞれの立場で一杯一杯に「法」が

備わっているという事です。


「修せざるにはあらはれず」とは、たとえ豊かに「法」が備わっていたと

しても、修行しなければそれが働きとしてあらわれて来ないという事です。


「證せざるにはうることなし」とは、実証〈理(理論)においても、事(事実)

においても証明する〉しなければいけないという事です。


自分の一生2

2019年01月16日 | 法理

私たち衆生は六道輪廻を繰り返し、全く「本来の自己とは何か」という

ことを考えることもなく「自分の一生」を送り続けているのです。


もう一度申し上げます。

私たち衆生は産湯につかっていることを自分では知(識)りません。

亡くなった時に身を浄められていることも自分では知(識)らないのです。


「本来の自己」は知(識)らないまま世の中を過ごすのがほとんどの人の

「状態(一生、人生)」なのです。


自分の一生1

2019年01月15日 | 法理

私たち衆生は、自分では何年何月何日に生まれたということは知(識)りません。

自分の名前を付けられたことも知(識)りません。


しかし、知らず識らずの内に「私は太郎です、私は花子です」といえる

ようになるのです。実に不思議です。


そして、物心がつく頃になると自分自身のことは考える暇もなく、物から

吸収する力が強くなってきてますます「本来の自己」から遠ざかっていく

のです。


また、亡くなられる人も自分の死ということは自分では分かりません。

自分の死を自分で知(識)る人はいないのです。


私たち衆生は「本来の自己」ということをはっきり知(識)らずに

「自分(?)の一生」を過ごしているのです。


人の人生2

2019年01月14日 | 法理

過去を顧みて現在の誡めとするのはよいことです。


しかし、いつまでも取り返しのつかない過去にひっかかっていては

愚の骨頂です。


また、先のことばかりに引きずられて行くのは誇大妄想です。


古歌に、

「過去を思い 未来をここに引きよせて 今現在を 常(とこ)闇にする」

とあります。


今日あっての過去です。今日あっての未来です。

否、過去も未来も「今日(即今)」となって現成(げんじょう)しているのです。


今日なくして人生なし。

今日を完全に送る人は「聖賢(せいけん)」です。


「地限り、場限り」と白隠禅師はいつもいわれました。

「その場その場を空しくするな」という意味です。


人の人生1

2019年01月13日 | 法理

人の人生。


若い人はこれから先があると思っています。

老いたる人は過去の夢をたどって一生としています。


これは全く間違いだと思います。


「人の一生」は今日の積もったものです。

もっと適切にいえば、今の積もったものが一生です。


たとえば、一千万は一円の積もったものです。

一円を欠いても一千万にはなりません。


今なくして、一生はありません。

過去は既に過ぎ去り、未来は未だ来らずです。


ですから、「人生は今日にあり」と、いわなければならないと思います。


瞬間

2019年01月12日 | 仏教

人及び一切のものには「善悪」というものはありません。

善と思う時があり、悪と思う時があるということです。


人は一度に「二つの考え」を思うことは出来ません。

ですから、「善と悪(二つの考え)」を一度に思うことは出来ないのです。


先ず「善(悪)」と思ってから、その「善(悪)」という考え方がなくならなければ

「悪(善)」を考えることは出来ません。


その「善(悪)」と思ってから「悪(善)」と思うわずかの間にものすごい

スピードで移り変わっているのです。


普通では考えられないかもしれませんが「瞬間」に「自我」というものが

立てられる訳です。


これはすべて「識の働き」によるものなのです。