ここで問題にしなければならないことが有(在)るのです。
「平常心(びょうじょうしん)」ということが仏道の極地(仏法のぎりぎりの
ところ) なのかということです。
確かに、「平常心」の他に「仏道(仏教)、禅」の目指すところは有(在)り
ませんが「平常心」というものを認めて「成る程、これが平常心だったの
かと考える」とそれは間違いなのです。
このことを「破還郷(はげんきょう)...故郷に還ることを破る」と表現した
覚者が居られます。
「そこに腰を据えてはいけない」ということです。
別の言葉で言えば「平常心是道の道筋」がそこに有(在)ると認めたならば
それは間違いだということです。
「平常心是道が仏道(仏法)の究極である」には違いないですけれども、
「仏教全体」でいえば「実相は無相なり」でないといけないのです。
そこが私たち衆生の還るべき家なのです。
葬儀に於いては「新帰元(しんきげん)...新しく元に帰る」といっています。
つまり、「何もないところ」です。