ここにおいて、「救い主としての神」を理想し、現在の人間生活の
苦悩を知(識)り、この耐えられない「苦悩」から逃れたい欲求に
「拘束」されてしまうのです。
先に理想とした「神(救い主)」にどうすることも出来ない「苦悩」を
托して「神(救い主)」の前に平伏するのです。
この時この思いの鎮まる処においてしばらく苦を忘れる、それを、
「救い」と思うのです。
しかし、これらは皆自分の「考え(思惑)の所産」であり、「人の心意識の作用」
なのです。「思い違い」なのです。
「AからBへ」との考え方の「移行」に過ぎないのです。
これは「思いに瞞(だま)された迷い」の種々の相なのです。
これが一般的に言われている「宗教」なのです。
「神(救い主)」というも、「迷いの人」というも、我等の「心の作為」
だということを知らないところから起こる教えなのです。