私たち衆生は今、本来の自分とか元に帰るということをよくいいますが、
果たして「自分の元(本)」というのは何かということを考えてみる
必要があるのではないでしょうか。
禅語に、「父母未生以前(ふぼ みしょう いぜん)」というお示しがあります。
「父、母から生まれない以前に自分はどこにあったのか」ということです。
このことをを大切な一つの「現成公案(げんじょうこうあん)」として
頂きたいと思います。
私たち衆生は今、本来の自分とか元に帰るということをよくいいますが、
果たして「自分の元(本)」というのは何かということを考えてみる
必要があるのではないでしょうか。
禅語に、「父母未生以前(ふぼ みしょう いぜん)」というお示しがあります。
「父、母から生まれない以前に自分はどこにあったのか」ということです。
このことをを大切な一つの「現成公案(げんじょうこうあん)」として
頂きたいと思います。
そこに問題があるのです。
だから、手が付けられなかったのです。
それをおシャカ様が始めて本当に手を付けて「解明」されたのです。
そういう「本来一つのものであるのにそれに私(わたくし)が起き、
そしてこの自分の本質に任せないから「衆生」のままで不安があるのです。
それをはっきり離れてしまうと「安心(あんじん)」ということがあるのです。
救われたということがきちんと分かるのです。
「衆生」というのも、今のように分からないものが分からないなりに
生まれて来たというのがすべてなのです。
それでそれが大きく成ったのです。
ですから、内容としては「仏」と同じものなのです。
内容としては同じものなのですが、「物心が付いたという時点」で
「此の物を私(わたくし)した」のです。
物心が付いて始まったそれも、子供時代ですから、その物心が付いた
時点ではそのこと(私したこと)を全く知(識)らなかったのです。
即ち、「自覚が無かった」のです。
「心仏及衆生是三無差別(しんぶつぎゅうしゅじょう ぜさん むしゃべつ)」
というお言葉があります。
心も仏も衆生も一つなのです。
「心」といわれるものは、私たちが何もその発生すら知(識)らないほど
分からない作用を起こします。
それが「心」の事実なのです。
それはそのはずです。
私たちはこの世に知(識)らずに生まれて来たのです。
知(識)らないなりに「此の物が今、存在している」のです。
ですから、「心」は架空のものではありません。
そういう働きをするものを、しばらく「心」と名付けたのです。
それを確実に「自覚」なさったお方が「仏(おシャカ様)」といわれる
由縁です。
有名なお言葉を紹介します。
”衆生本来仏なり”
私たち衆生は本来、「仏そのもの」であり、それは「今の自分自身である」
ということです。
ですから、もっと大きく「活かして生きなさい」と言っているのです。
おシャカ様の教えの中で言う「仏」というのは、「人間(仏教ではじんかん)
の中でなければ生まれて来ない」ということです。
「此の物が此の物」に成った時、「衆生が衆生」に成った時を「成仏、成道、仏」
といいます。
※「人間(じんかん)」とは広辞苑に拠れば「人の住む所、世の中、世間」と
記されています。
衆生(しゅじょう)とは仏教語で、広辞苑に拠れば、
「いのちあるもの、生きとし生けるもの、一切の生物、一切の人類や動物、
六道を輪廻する存在、有情(うじょう)」と記されています。
私たちは元々一つの種が有(在)って、それから生まれて来たものではありません。
物の実体というものは、色々な物が集まって出来たものですから、
元々有(在)るはずが無いのです。
私たちを「此の物」というのが一番適切な表現だと思います。
私たちは「此の物」を「人(ひと、にん)」と言いますが、此の物は人ではありません。
「衆生」なのです。
つまり本来私たちは「すべての物と同じ」なのです。
「人」と認めようのないものです。
始終変化している訳ですから、「実体が無い」ということです。
有る時は「縁」に応じて色々な物に姿や形が変わるということです。
あたかも自分の名付けたものに因って自分が混乱をさせられているように
思うことがありますが、それは全くの間違いです。
その問題を生じさせているのは「自分自身」なのです。
「おシャカ様の教え(無我の教え)」の「自然(じねん)」と
「六道(りくどう)の衆生」の「自然(しぜん)」とは比較になりません。
人が生じる以前に森羅万象は既に在りました。
人が生じることに因って、その森羅万象を「認識の対象」としたのです。
そして人が認めることに因って、森羅万象の様子を「自然(しぜん)」と
名付けたのです。
「山川草木それ自体」は、自然(しぜん)とも不自然(ふしぜん)とも
そういう在り方はしておりません。
ですから、人が只そう名付けたということです。
仏教では、「人の生ずる以前、人が森羅万象の様子を認める以前の
自ら道理にかなっていることを「自然(じねん)」といいます。
すべてのものを「人が認識(認めたことに因って)」し、名付けたことに因って
「自然(じねん)と人との隔たりが生じた」のです。
「自己の正体を見極める」とは「自己の正体を諦める」ことに他なりません。
これをおシャカ様のお示しでは「一大事因縁」といいます。
「大事」とは広辞苑に拠れば「大事②」で、一大事の略、「出家して悟りを開くこと」
と、はっきり記載されています。
いつの間にか知らず識らずの間に、この「一大事因縁」ということが、
私たち衆生に於いては忘れ去られてしまっているように私には思えてなりません。
「明らめる」の語源は、四聖諦の最初の「苦しみの原因を明らかにする」
に由来するものです。
その原因は、「無明(むみょう)」即ち「人間(にんげん)が真理を
知(識)らないこと」と説かれたのです。
この頃つくづく思うことは、「諦める」という言葉を「語源から明らめる必要性」が
あるのではないかということです。