そこで私たち衆生は何に参じていったらいいのかということが
問題にならなければいけないのです。
そして早く「参ずべきもの」を知(識)って、それをきれいに無くして
しまうようにならないといけないということです。
どんなに立派な覚者であろうとも、「迷いのままが結果であり、仏である」
ということがどうしても分からなかった時代があったのです。
ですから、「縁」が来なければどうにもならない時があるわけです。
後進の私たち衆生は何処までいっても「唯務(ただつとめる)」でなければ
ならないということなのです。