活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

泥棒 1

2016年06月10日 | 法理

好いものは好い、憎いものは憎いままに憎いのだから、

その間に自己はない、そのままなれば 「泥棒」 になってもよいじゃないかという

考えが出て来るかもしれません。

 

此処は大変な問題です。

成り切って己を忘れるというならば 「泥棒」 になってもいいではないかという考え方です。

成り切ってそれを応じたならば 「泥棒」 は出来ないのです。

相手がない「本当の泥棒」が出来ないから「泥棒」をするのです。


何故ならば、「泥棒」そのものに成り切ったならば自分はないのです。

自分がなければ彼方も皆自分と同じものです。

彼方の財産は皆自分のものだから取りようがないでありませんか。


彼方を敵としたならば、何ぞ図らん自分だから、自分が自分を殺す訳にはいきません。

「泥棒に成り切った」 ならば、「泥棒」 ができるかということです。


ですから、本当に成り切れば、どうしても 「泥棒」 は出来ないのです。

そこを間違えてはいけません。