好いものは好い、憎いものは憎いままに憎いのだから、
その間に自己はない、そのままなれば 「泥棒」 になってもよいじゃないかという
考えが出て来るかもしれません。
此処は大変な問題です。
成り切って己を忘れるというならば 「泥棒」 になってもいいではないかという考え方です。
成り切ってそれを応じたならば 「泥棒」 は出来ないのです。
相手がない「本当の泥棒」が出来ないから「泥棒」をするのです。
何故ならば、「泥棒」そのものに成り切ったならば自分はないのです。
自分がなければ彼方も皆自分と同じものです。
彼方の財産は皆自分のものだから取りようがないでありませんか。
彼方を敵としたならば、何ぞ図らん自分だから、自分が自分を殺す訳にはいきません。
「泥棒に成り切った」 ならば、「泥棒」 ができるかということです。
ですから、本当に成り切れば、どうしても 「泥棒」 は出来ないのです。
そこを間違えてはいけません。