僧侶は高尚な事ばかり言っていないで、「法事」 もしなければなりません。
「葬式」 も頼まれれば行わなければならないのです。
最終的なものが目標になって、その上から 「法事」 なり 「葬式」 も行っているのです。
高尚なものをいきなり持ち出して、全部そうならなくてはならないと言ってもどうにもならないのです。
それだけでは、「満足」 がいかないことが出て来るのです。
一般の人はいろんな行事を行ってもらうと 「ああ、よかった」 と満足するのです。
「因果の関係」 において 「生死輪廻」 するということがありますから、「生死輪廻」 する期間において
「救われる道」 があるのです。
ですから、僧侶(宗教者)はそういう事も行っていかなければ、その人は 「摂(おさ)まらない」 のです。
その為に禅宗では 「摂心(せっしん)」 が行われるのです。