活かして生きる ~放禅寺の寺便り~

娑婆世界を生きる智慧/おシャカ様・禅・坐禅・法理・道のこと

救い 4

2016年06月20日 | 法理

僧侶は高尚な事ばかり言っていないで、「法事」 もしなければなりません。

「葬式」 も頼まれれば行わなければならないのです。

 

最終的なものが目標になって、その上から 「法事」 なり 「葬式」 も行っているのです。

高尚なものをいきなり持ち出して、全部そうならなくてはならないと言ってもどうにもならないのです。

 

それだけでは、「満足」 がいかないことが出て来るのです。

一般の人はいろんな行事を行ってもらうと 「ああ、よかった」 と満足するのです。

 

「因果の関係」 において 「生死輪廻」 するということがありますから、「生死輪廻」 する期間において

「救われる道」 があるのです。

 

ですから、僧侶(宗教者)はそういう事も行っていかなければ、その人は 「摂(おさ)まらない」 のです。

その為に禅宗では 「摂心(せっしん)」 が行われるのです。


救い 3

2016年06月19日 | 法理

鮒には鮒の餌でなければ喰いつきません。

鯉には鯉の餌でなければ喰いつかないのです。

 

「仏法」 というものは、高尚なことを言っているかと思うと、皆が眉をひそめることまでの

末端まであるのです。

 

そういう必要があるのです。

そういうようなものでないと頼りにしない人もいるのです。

 

そういう範囲の人たちからは、「道(法)」 の話は、逆につまらないものになることがあります。

ですから、「仏法」 というものは、一番最上なところから末端まで

「何処までも救われる道」 が施されているのです。


救い 2

2016年06月18日 | 法理

「こつこつ」 と行えば必ず効果はあります。

道元禅師は 「他土の往生を願わしむ」 という様な事を仰っていますが、

全般には 「本当に自分が救われたい」 というより、どこかの 「浄土」 へ引っ張って行ってもらいたい

と言う人もいるのです。

 

そういうような人には、「そういう様なもの(浄土)」 があるからいいのです。

それを全部否定してはいけません。

決して否定出来るものではないのです。

 

いろいろな人がいる 「差別(しゃべつ)」 ですから、「それぞれの範囲内」 で救われればよいのです。

「法」 とは 「差別(しゃべつ)」 の義です。


救い 1

2016年06月17日 | 法理

「道(法)」 の話は、聞かないより聞いた方がいいのです。

知(識)らないより、聞いただけ、今までの 「道(法)」 の間違いというものが保証されて、納得がいくからです。

 

それだけでも 「救われ」 ます。

ですから、「本当に救われる」 ということではなくても、部分的に 「救われる」 ということはあるのです。

 

一切の衆生が 「根本的な救い」 を求めているかというと、そうではないと思います。

時分に足りないところを補ったり、知(識)ったりしたいとの要求はあります。

それも、「道(法)」 の話を聞けば充たされます。

 

「道(法)」 の話を聞く場合、「本当のことを本当に徹底したい」 という要求のある人 と、

「部分的にでも自分たちに間に合うものがあったら、間に合ったものでいい」 と言う人もいるわけです。

 

このことは、「要求の違い」 だけのことですから、それぞれが、それなりの範囲内で効果があるということです。


本智

2016年06月16日 | 法理

「本智」 とは本来迷わぬ 「智慧」 のことです。

私たち衆生は生まれたと思うから生まれたのです。

「生まれた」 ということも 「心」 ならば、「死ぬ」 ということも 「心」 になります。

 

「心の外」 に生まれるということも、死ぬということもないのです。

すべてが 「心」 ならばどうしてよいか。

 

先般そのことを 「泥棒」 ということで論考しました。

「泥棒」 と成り切って下さい。

「心」 というものと、「泥棒」 というものも同じではないですか。

 

成り切った処は同じなのです。

真剣に到着すれば同じ事なのです。

 

同じ事ならば、同じものだから、盗む訳にはいかないのです。

成り切らないから、「泥棒」 をするのです。

 


人生の価値

2016年06月15日 | 法理

「時間・空間」 を超越した楽しい生活をしなければ人生何の価値もありません。

私たち衆生が 「働く」 という、その働きそのものに対して価値を認めることが出来れば 「不安」 がなくなります。

 

ですから、「本当」 に働いて下さい。

働けば 「側、傍(はた)」 が楽になるのです。

「ハタラク」 というのはそれです。

 

故に働くということは 「菩薩行(ぼさつぎょう)」 なのです。

「救い」 です。

働くということは救いなのです。

 

前の世に借り倒すか、今貸すか。

どうせ一度は報いある身分です。

また今、貸したならば後の世に必ず報いが来るに相違ありません。損はありません。

 

それが分からないから 「縁の下の力持ち」 だ何だと言って不平をいうのです。

これが、「因果歴然(いんが れきねん)の真理」 です。

 


本心 2

2016年06月14日 | 法理

「本心」 を明らめるにはどうしたらよいかということが 「先決問題」 です。

「心っ」 と自分で言うのです。

「こころーっ」 と言ってみて下さい。

「心」 が出ているではありませんか。

 

「こころーっ」 という時に己れはないのです。

それでは何物が 「こころーっ」 と言うのでしょうか。


「己れ」 がなければ 「己れならざる処」 がないのですから、「心」 と うものの世界ではありませんか。

「心」 というものに成り切ることが必要なのです。

「心」 に成り切れば何にでも成り切れるのです。


何故ならば 「何でも心」 だからです。

その物その上においては 「時間、空間」 を超越するのです。

これが 「禅の極致」 です。


「こころーっ」 というのは何か、「心」 というものは元来何か。

「鏡(かがみ)」 というものの 「が」 の字を除けば 「かみ」 に成ります。

「こころ」 というものには、「我」 がないではありませんか。


今まで私たち衆生は、「鏡」 というものを、「鏡」 という言葉ばかり見ていたから 「本当の心」 ではないのです。

「かがみ」 の 「が」 がなければ 「かみ」 ではないですか。


既に 「神」 を天国に求める必要はないのです。

「高天原(たかまがはら)」 に求める必要はないではないですか。

或る時は仏様とも大菩薩ともいうのです。


本心 1

2016年06月13日 | 法理

古人が書物を著わした精神は、「本心」 を見つけさせたいばかりなのです。

書物の文字には必要がないのです。


私たち衆生は 「本心 」を見つけなければならないのです。

「本心」 を見つければ、あとの文字の関係は必要ないのです。


例えば、「般若心経」 というものは、私たち衆生の心を写した写真なのです。

今日の私たち衆生は長いとか短いとか、広いとか狭いとか 「時間・空間の間」 に

住んでいるので、それは限られるのです。

「生死の間」 を往来しているのです。


ですから、「生死」 を没却することが出来ないのです。

生き死にが気にかからない様にならないといけません。


そして、「超然たる実生活」 をしなければなりません。

それには 「本心を明らめること」 が一番大切なのです。


泥棒 3

2016年06月12日 | 法理

今日の 「泥棒」 は、「本当の泥棒」 ではありません。

「ケチな泥棒」 です。 「小盗人(こぬすっと)」 です。

 

「本当の泥棒」 に成れば世界を取っています。

おシャカ様は 「三界は我が家だ」 という世界をとっています。

「大泥棒」 ではありませんか。


それも手を費やさずに取っています。

始めより自己と同じものなのです。


「取ろう」 という念を費やさずして我が物に成っています。

「泥棒」 をやるなら 「大泥棒」 をやれということです。

「私の大泥棒」 というのは、本当に働くことです。

働くことが 「大泥棒」 です。


「三界は我が家なり」 で言う 「三界」 はこの小さな世界どころではありません。

「無辺の空間」が「三界」なのです。


泥棒 2

2016年06月11日 | 法理

「鼠小僧」 は 「泥棒」 を止めなかっただけに修行が足りないのです。

人に施すのはよいけれども、それは贅沢です。


少しも功徳ではありません。

本当に瞋(いか)ったならば腹は立たないのです。


「本智不生」 というお言葉がありますが自分がない、自己がないのです。

ですから本当の瞋りというものが本当に手に入ったならば腹は立たないのです。


本当に 「泥棒」 に成り切ったならば、「泥棒」 は出来ないのです。

そこを間違えてはいけません。


そこを間違えてはいけません。

自己を認めるから本当に成り切れないのです。

そうして悪いことをしてもよいということになってしまうのです。