函館市とどほっけ村

法華宗の日持上人にまつわる伝説のムラ・椴法華。
目の前の太平洋からのメッセージです。

空間がビジネスになる

2007年06月27日 15時48分17秒 | えいこう語る
A紙朝刊の、パルコ元会長増田通二氏を悼むという記事に目がいく。
増田氏のことは存じ上げないが、パルコとあったからつい読んでみた。
60年代の函館のデパートは、買い物はもちろんだが、休日に家族が連れ立っていく憩いの場であったり、常に新しい時代の空気を発信し、消費者にとっては情報収集の場所でもあった。百貨店と呼ばれ、品物も所狭しと並んで、迷子になるほどの混雑振りだった。特に最上階の食堂は、随分待たされたが子供にとってどんなに楽しかったか、今でも鮮明に覚えている。デパートに行くのに家族も身なりを正して行ったし、今に思えば親達も結構な散財であったと思う。老舗デパートは、「000さん」に買い物に行くとさん付けされたぐらい親しまれ、港函館の老舗としてのプライドと風格もあった。
60年代後半の東京のデパートも、人、物で溢れかえっていた。池袋駅の東口の西武デパートを出るとすぐ前に都電が走っていた。都電に乗るたびに同じ市電が走っている函館を思い出していた。その都電も急激に発展する地域からは無用の存在とされすぐに廃止された。それと同時期に西武デパートの半分がパルコと改名した。(半分なのか全部だったのか、40年近く前のことで記憶がぼんやりです)
パルコに入り驚いたのは今でもはっきり覚えている。
通路が広く、空間が多いのである。どこかの階には、オーディオルームになっていて、椅子がまばらにあって、そこで休んで音楽を聴く事が出来た。
パルコとは何語か忘れたが、『広場』と言う意味だと知らされた。田舎から出て来て、大都会東京は息苦しく狭いと言う感情をもっていたが、広さが消費者をひきつけ、購買力を高めると言う事なのかとその時はぼんやりと考えていた。
それから20年後、当時のパルコの設計に携わった人の講演を聞いたら、「空間がビジネスになるというコンセプト」だったと話していた。
今函館の年間の観光客は500万人を切って、低迷を続けている。市当局としては目玉になる観光施設をつくりたがリ、赤字を想定しながらも水族館の建設を掲げたが、財政難と市民の反対で頓挫した。これは市民の選択が正しいと思う。しかし、現在五稜郭の城壁の中に榎本や土方たちが立てこもった奉行所の建設がはじまった。
城壁内の中央部は広場になっていて、そこを囲むように松林がある。嘗ては運動会なども開催されていた。松林の下のベンチに腰をかけその空間を眺めていると、函館戦争で戦った人々の声が聞こえ、蝦夷共和国建設を夢見た兵士たちの姿も浮かんでくる。近くに資料館があるので、そこに立ち寄ると尚更想像心が掻き立てられ、当時の写真を見るだけで奉行所は想像できる。函館は我が国屈指の開港都市であり、ハイカラで進取の精神に富んでいる。何より街の景観が素晴らしい。財政難の現在である、ハコモノ行政は改め、人々の想像心を掻き立てる、空間を生かした街づくりをして欲しい。
観光客が北海道に来て溜息をつくのは、広々とした大地に対してである。ちまちまとした観光施設をつくり、空間を狭めては、増田氏に笑われてしまうのではないかと、パルコ文化の一時代を築いた氏の業績を読ませていただいた。
氏が貫いたものは『反骨精神』だと言う。
今の世にあって見習いたいものの一つです。