夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(10)

2013-06-05 23:13:22 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。
十三日 天晴る。未(ひつじ)の後雨注ぐがごとし。夜に入り雨止む。未の時北野に参詣す。自らの歌一巻箱に入れ祝部(はふりべ)の僧に預け、奉納すべきの由語り付け了(おは)んぬ。先日参詣し、心中の祈願已(すで)に以て満足す。仍(よつ)て重ねて詠進する所なり。雨を凌いで昇降し退出す。大炊殿に参り、夜に入り廬に帰る。

記事の内容
この日、定家は未の時(午後二時頃)北野社に詣で、自ら詠んだ和歌一巻を、神社の職員にことづけ奉納している。

定家は去る八月一日、北野社に参詣したときに「別して祈請申す事有れば」と、特別に神に誓いを立てて、その加護を祈っていた。
それはやはり、『正治初度百首』の歌人に選ばれ、出詠することを祈っていたことがわかる。心中で祈願していたことが叶い、「満足」と記す定家は得意げである。


(「北野天神縁起絵巻」鎌倉時代 十三世紀 京都・北野天満宮所蔵 「国宝大神社展」図録による)

感想
前回触れていた「正治二年和字奏状」についての補足。
これは定家の父・俊成が後鳥羽院にたてまつった長文の書状で、『正治初度百首』の歌人に定家らを加えるべきことを主張したものである。

俊成はまず、後鳥羽院が我が国の伝統芸能である和歌に心を寄せ、百首歌の詠進を歌人たちに命じたことを、歌道の復興ととらえ、「かぎりなくめでた」いと称賛している。
ただし、今回の百首の人選に年齢制限があり、「老いたる者」(四十歳以上)からしか選ばれないのは不審であると、『堀河百首』や『久安百首』(いずれも三十代の優秀な歌人が参加)といった先例を挙げて、俊成は主張する。
息子の定家は年齢も四十に近い上、歌道においては自分の後継者として、歌合の判者や勅撰集の撰者もつとめうる力量ある歌人であるのに、今回の『初度百首』の人選に漏れたのは、思いがけない「憂へ嘆き」である。
最近の「歌詠み」と称する者たち(六条家の季経・経家などをさすと思われる)はみな中途半端で、見るにたえない歌ばかり詠んでいる。一方で定家は、古歌の模倣にとどまらない、興趣ある新風を開拓しようと努めているのに、彼らはそれを理解できず、かえって定家を誹謗中傷する始末。
そもそも六条家の歌人は、『詞花集』の顕輔(季経の祖父)、『続詞花集』の清輔(季経の父)など撰集に不備が目立ち、当時から悪評も多かった。重代の歌人であるからといって、季経を重用することは、歌道のためには問題である。

俊成はこのように述べ、『初度百首』の作者には定家、家、隆房らを人数に加えるべきだと主張する。特に、
定家はかならず召し入れらるべき事に候(さうら)ふか。彼はよろしき歌、定めてつかまつり出で候ひなん。御百首のため大切のこととなん。これらはさらに子を思ひ候ひても申さず候ふ。世のため君(後鳥羽院)の御ため吉事候ふべきことを申し候ふ。
とあるのは、俊成の強い意志を感じる。「憚り多く」、「恐れ多き事」と言いながら、歌道のため後鳥羽院の御ためになることだから道理を申し述べさせていただいたのだ、と述べる俊成の意見には、誰もが耳を傾けずにはおかない迫力がある。

村尾誠一氏が述べられているように(『中世和歌史論』)、俊成がここまで強い調子で子の定家を推挙しているのは、この『初度百首』の企画が、後に必ずや後鳥羽院による勅撰和歌集の下命に結びつくにちがいない、という事態を見据えているのだろう。この百首にとどまらず、後鳥羽院の和歌活動が今後盛んになると予想されるのであれば、定家がこの百首に参加できるかどうかは、近い将来、定家が自分に代わって歌壇の指導者となり、勅撰集撰者となれるかにも関わってくる。俊成は八十七歳という自分の年齢(当時としては相当の高齢)を考え、歌道家としての浮沈をかけて、後鳥羽院への直訴に及んだのだろう。

「正治二年和字奏状」の最後は、
  和歌の浦の蘆辺(あしべ)をさして鳴く鶴(たづ)もなどか雲井(くもゐ)にかへらざるべき
という歌で結ばれている。この歌は、『万葉集』山部赤人の、
  若の浦に潮満ち来れば潟を無(な)み蘆辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る(巻六・九一九)
を踏まえている。俊成は、『初度百首』の人数に漏れた定家を、鳴いて迷っている鶴にたとえ、「雲井」(宮中)での和歌の催しにどうか加えていただけないものか、と愁訴している。

情理を尽くした俊成の書状に後鳥羽院は心を動かされ、『初度百首』の年齢・人数制限を解き、定家らを加えることを決断し、即座に実行した。「正治二年和字奏状」は長文で、原稿用紙に直すと約七枚半にも及ぶ。今回読み直して、老俊成が渾身の力をこめて認めた書状であることを改めて感じ、俊成の誠意・熱意が後鳥羽院を動かし、御子左家の置かれた困難な状況を打開して、後の家運の興隆につながったことを思った。

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