夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(8)

2013-04-28 23:57:21 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。

九日 去る夜今日雨沃(そそ)ぐがごとく、聊(いささ)かの隙(ひま)無し。河水大いに溢れ、田畝又水底と為ると云々。早旦相公羽林(藤原公経)、夜前に百首作者仰せ下さるるの由其の告有り。午(うま)の時許(ばかり)に長房朝臣の奉書到来し、請文を進め了(おは)んぬ。今度加へらるるの条、誠に以て抃悦(べんえつ)す。今に於いては渋るべからずと雖も、是偏(ひと)へに凶人の構ふるなり。而るに今此くのごとし。二世の願望已に満つ。(下略)

記事の解説
大雨のこの日、早朝に義弟の宰相中将・公経から吉報がもたらされた。
昨夜、「正治初度百首」の作者に定家を加えるよう、後鳥羽院の仰せがあったのだという。やがて正午頃、藤原長房(後鳥羽院の近臣)が正式の書状を携えて定家の邸を訪れ、定家は請文(うけぶみ=承諾の受取状)をたてまつった、とある。

七月二十六日の記事では、定家は、この百首の人選は後鳥羽院のご意向ではなく、もっぱら「権門(源通親)の物狂ひなり、弾指すべし」と息巻いていた。だが、その後、定家の父の俊成が後鳥羽院に直接働きかけ、定家と他二名を新たに作者に加えてもらうことに成功したのだ。(この経緯は次回紹介する)。定家は「抃悦」(べんえつ=手を打って喜ぶ)し、現世はもちろん、来世の願望まですでに満たされてしまったと思われるほどだ、と嬉しさをはばかることなく書きつけている。

感想
定家は一方で、今回の一件は自分を百首の作者から外そうと、「凶人」(通親や六条家の季経などをさすと思われる)が画策したけれども、結局このような次第に相成った、ざまをみろと言わんばかりに口汚く罵っている。定家の記述はこのように、怒りを爆発させたり、ひどく意気消沈したり、大袈裟に感動したりと、非常に浮き沈みが激しい。目崎徳衛氏は、
さて、こうした現金な豹変は、『明月記』全巻を通じる特徴である。それは詩人の激越な感受性をうかがうには至って面白いけれども、後鳥羽院時代の最大史料として用いるには、冷静な史料批判による客観性の確認が必要である。(『史伝 後鳥羽院』吉川弘文館)
と述べておられる。
私としては、定家の歌人としての類いまれな才能と後世に神格化されたほどの名声の一方で、人格的には未成熟で(現代ならアダルトチルドレンとか発達障害と言われかねない言動がまま見られる)処世が拙い彼に、むしろ共感せずにいられない。

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