ぶちょうほうの画(え)日記(一語一画(え))

亭主「ぶちょうほう」の身の周りのいろいろな風物を「画(え)日記」ふうに綴っています。

6/3日 季節と共に 自転車で 3の2:三河八橋無量寿寺まで カキツバタ ニホンミツバチ 芭蕉句碑

2014-06-08 17:35:49 | 草花
「伊勢物語」で八橋という地名のことを”東下り”の中でこう説明しています。:

三河の国八橋といふところに至りぬ。そこを八橋といひけるは、水ゆく河の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋といひける。
(口語訳:(旅を重ねて)三河の八橋に着いた。その土地を八橋というのは、流れている川がクモの足ように8つに分かれていて、(8つの川それぞれに)橋が架かっているから)

後世”三河八橋”として著名になり、この地を訪れる文人墨客は多いとは聞きますが、小生は詳しくは調べていないので、「どなたがここを訪れたか」ということをここで記述することができないのが残念です。
なおこの三河八橋は現在は愛知県知立市となっています。

今回案内の無量寿寺は704年創建の寺で、隣の町の別の場所にあったそうですが、821年にここ八橋に移され東海山無量寺と改められ、902年に八橋山無量寿寺と改称されたようです。
当初は真言宗と天台宗の二つを兼ねていたそうですが、1711年に臨済宗妙心寺派になり現在に至っているそうです。
こう言ってはなんですが、お寺さんの身持ちも「なんだかなぁー・・・」という感じも残ります。

念のために確認しておきますが「伊勢物語」のモデルは在原業平(825-880年)されていますが、いつ誰が書いたのかははっきりしないそうで、後世に書き足しがあるとも言われています。

根上がりの松 ↓

在原寺を後にします。村中の狭い道は旧鎌倉街道であったという説もあり、路傍に奇妙な松があります。これを”根上がりの松”というそうで、安藤広重の浮世絵「東海道名所図会」のモデルと目されているそうです。



業平塚 ↓

在原業平(825-880年)の遺骨を分骨してここに葬ったとされていますがその記念碑です。
墓碑には「在原業平朝臣墓所」と記されています。



在原業平の供養等 ↓

さきの在原寺縁起にはここに業平の遺骨を889年に分けて塚を築いたとあるそうです。
しかし、後世の調べではこの供養等は鎌倉末期の建立とされています。
この傍らに樹齢数百年とされた大松がありましたが伊勢湾台風で倒されてしまい今はその姿が見られません。



供養塔脇の木 ↓

これはウメモドキでしょうね。見た最初はムラサキシキブかな? と思いましたがどうもしっくりとききませんでした。



カキツバタの庭園 ↓

在原寺と業平塚をあとにして今度は無量寿寺に行きます。田舎の道は細くて曲がりくねっていて、ある時は袋小路があったりもします。
こんなときの自転車は自由に道を選べるところが嬉しいですね。
ついたところは無量寿寺の裏手にあるカキツバタ庭園でした。
最近新しく業平の銅像が建立されています。肝心のカキツバタは花が終わっていました。



カキツバタ ↓

それでも咲き遅れの花がたまに残っています。



庭園内 ↓

寺の脇の庭園に場所を変えますと、ここで野点をした跡が残っていました。
付き山が有り、その背景には村積山が見え、目の前にカキツバタの咲く素晴らしい眺めの中で頂くお茶はさぞかし趣き深いものでしょうね。



八橋古碑(亀甲碑) ↓

亀さんが背負っている屋根つき四角柱の石は八橋の故事を書き留めたもので、荻生徂徠の門人がしたためたものを、また同門の人が清書してそれをまた同門の人が1742年にこの石碑にしたものだそうです。 ややこしくてどうでもいい事が看板に書かれていました。



ミツバチには大きな功徳 ↓

そのどうでもいいような曰くつきの亀甲碑に近づくと周りをぶんぶんと煩わしく飛び回るものがいます。これは最近は見ないニホンミツバチですね。
確かに養蜂家が飼育する西洋ミツバチよりも随分小型でした。
こんなに重い石をどかしてまでは蜂の巣を荒らすことは出来ませんね。



芭蕉の連句碑 ↓

碑の刻文が浅くてとても読み難いのですが、脇の看板に説明書きがありました。

かきつばた われに発句の おもひあり (芭蕉)
麦穂なみよる 潤ひの里 (知足)

1685年に鳴海(愛知県名古屋市緑区鳴海)の下郷知足の家に泊まり、句会を開いたときの作だそうです。
この碑は1777年に、知足の子孫が建立したそうです。



無量寿寺本堂 ↓

このお寺の境内にも 「ひとむらすすき」と「業平の竹」は植えられていましたが、今回は掲載を割愛しました。



三河八橋駅 ↓

名古屋鉄道三河線の「三河八橋」のモダンな感じのする駅舎です。
周りの民家は昔ながらの由緒を感じますが、この建物はそれとは違っていました。




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4 コメント

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こんにちは (多摩NTの住人)
2014-06-09 07:29:00
広重の絵をネットで確認しました。
見事に根上がりの松が描かれていますね。
大変興味深いです。
鎌倉街道は関東一円かと思っていましたが、知立方面でもあるんですね。
知りませんでした。
返信する
多摩NTの住人様へ (ぶちょうほう)
2014-06-09 10:52:15
多摩NTの住人様 こんにちは コメントをありがとうございます。
広重の絵を検索されたのですね。
小生も記事にするに当って広重の絵と比較しましたが、どうもしっくり来ませんでしたので、記事中の表現は曖昧にせざるを得ませんでした。
今ではあの付近の様子は画とはまるで違っていて、池もありませんし、カキツバタの咲きそうな場所でもないのです。
デフォルメという言葉もありますが、広重さんは気宇壮大に1000m規模であたりの景色を省略して、画にするのに都合の良いような景色を作り出していたのでしょうか。

鎌倉街道はおそらく頼朝の世になって網の目を張り巡らすように出来て行ったのではないでしょうか。
少なくとも京都-鎌倉間には確乎とした道は通じていたことでしょうね。
返信する
根上の松 (かなこ)
2014-06-09 11:23:44
ぶちょうほうさん今日は。
歴史に関してよくご存知ですね。
歴男さんですね。
業平さんの縁のお寺さんは歴史を感じました。
私は歴女ではないのですぐに忘れますが・・・。

根上りの松確かにありましたね。
実物をこうして見るのは初めてですが この木も立派な根っこを持ち上げていて 感動しました。

ピンクのお花は葉の感じではウメモドキのようですね。
雌花は最初から実を持っていますので これは仰るように雄花のようですね。
雄花は初めて見ました。
いい発見でした。

返信する
かなこ様へ (ぶちょうほう)
2014-06-09 12:04:42
かなこ様 こんにちは
一昨日は家を空けていてネット上では失礼していました。
昨日の晩頃からやっとネット復帰の運びとなりました。

歴史に関してはそれはもう大変な”ど素人”です。
そのために記事にするときには相当苦労して調べています。
そういうことの結果、小生の記事中には「だそうです」とか「と言われています」と言う類の引用を示す言葉が多用されます。
この下調べして記事を書くことこそがボケ防止の過程なのかもしてません。

こういうどうでもいいような事柄は見たときに新鮮に感じて、それから後は綺麗サッパリ忘れることが人間の節理にかなっていることだと思います。

根上がりの松は広重の絵のモデルさんにしては少々??が付きましたので、記事中の表現もあいまいにしておきました。
しかし、現地で現物を目の当たりにして見ますと、根が空中に曝されて、何だか痛ましさを伴いましたね。

ウメモドキで合っているとするとこれは直前に御ページでウメモドキの花を見ていた御蔭なのです。
現地でこの花を見てからずっとムラサキシキブにしては違和感がありすぎていたところに、御ページでウメモドキの画を見てこれが近そうだと感じたのでした。

雄花と雌花の区別は未だそこまするレベルではありませんでした。
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