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Brugge Style
幻獣誕生
羽が生えたかのような思いでロイヤル・バレエへ行ったというのは昨日も言いましたな。
それはそうと、続きがある(やれやれ)。
今回、何組ものパ・ド・ドゥを見て前々から思っていたことを確信したので、好事家のお遊びとしてそれについて書きたい。

彼らは組んだ途端、例えば女性ダンサーと男性ダンサー「2人」ではなくなり、その場その瞬間ごとに生成する、「ひとつ」の新しい別の生き物(ハイブリッドなペガサスやサイレーン)になるのだ。
だからあのような複雑怪奇な動きを軽やかに流れるように、いとも簡単そうに行うことが可能なのだ。
もう少し説明してみる。
舞台に別々に歩み出た女性ダンサーと男性ダンサーはまだ別々のダンサー2人だ。その時点ではまだその美しさの元になっている個性、我、というものが前面に出ている。
しかし2つの身体がある一点で触れた時(あるいはこれから触れる、という機がダンサーの意識に現れると同時)に、動きを司っている主体としての女性ダンサーと男性ダンサーに変化が起こる。もうそこには別々の、二元的な主体はない。どちらがリードする、どちらがサポートする、という差すらも消え失せ、彼らはそのつどひとつの生き物として踊るのだ。
それは一種、自我への執着を捨てた状態、と言ってもいいのかもしれない。
これが優れたパ・ド・ドゥの秘密だ(たぶん)。
もしかしたらクラシックの合奏や武道、特にジャズの即興などもそうなのかもしれない。
で、ますますシロウトの想像でしかないのだが、身体が一点で触れ(あるいは触れる、という機が意識に現れると同時)、2つの別々の主体という区別が掻き消えて、新しいひとつの生き物として踊るべき時に、「私」の動き、「私」の軸、「私」の位置、「私」のパート、私、私、私...と主体を手放さずにいると、もちろん動きはぎくしゃくするし、最悪、怪我の確率が高くなるのではないか。
まあ音を合わし損ねたジャズ・セッションでぎくしゃくはあっても、怪我まではしませんな(笑)。
そんなことを考えられたのもよかった公演だった。
幻獣ペガサスになって飛んで行ける人間を心から讃えたいと思う。
(写真は昨日と同じく「スイート・バイオレット」、 The Gurdian から)
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