河童の歌声

歌声喫茶&キャンプ&ハイキング&写真&艦船

日本にしか無かった、航空戦艦

2024-03-17 06:42:18 | 軍艦
軍艦の中で最強を誇るのは、
敵艦との激しい殴り合いに耐える事の出来る、戦艦が最強です。
しかし、最強の戦艦であっても、空母には敵いません。
空母と言う艦種は防御が脆弱で、戦艦との殴り合いには、
全く弱く歯が立ちません。
ですが、空母から発進する航空機の威力は、
桁外れの強さを持ち、戦艦はそれには敵わないのです。

だったら、最強の戦艦と、それ以上の能力を発揮する、
空母を一体にしたら、もう手が付けられない強さとなるでしょう。



戦争物の漫画とかには、如何にもそれっぽい航空戦艦が描かれています。
果たして、航空戦艦は本当に最強の軍艦だったのでしょうか?
その答えを知っているのは、実際に航空戦艦を持っていた日本だけです。



1915年、日本初の超ド級戦艦、扶桑が完成しました。
しかし、この戦艦は日本海軍の大失敗作だったのです。
36センチ砲、2門×6基で12門という攻撃力を誇りました。
しかし、6基もあるという点が、ボイラー面積を奪い、低速戦艦となってしまったのです。
これを4基にして高速力を持った方が良かったのです。

これより少し前に造られた、イギリス製、戦艦金剛がこれでした。
ですから金剛型はその高速ゆえに第二次大戦で大活躍できたのです。

さて、扶桑型戦艦は2番艦として山城が造られ、
3番艦は伊勢、4番艦は日向だったのですが、
扶桑型の失敗を見た軍は、伊勢と日向を扶桑型とは少し違った設計にしました。



主砲の配置を、2+1+1+2=6基だったのを、
2+2+2=6基としました。
これでボイラー面積を稼ぎ速力アップにしたのですが、
それほど劇的アップにはならず多少はまし程度でした。
逆に兵員の居住スペースが狭くなって、兵員たちを苦しめる事になったのです。

1942年(昭和17年)
日本軍はミッドウェー海戦で大敗北を喫し、虎の子の大型空母4隻全部を失ってしまいました。
色を失った海軍は、急遽大型空母を建艦しなければならなくなったのですが、
資金も時間もそんな余裕は何処にもありません。
そこで目を付けたのが戦艦伊勢・日向でした。
あまり役にも立っていなかったからです。
最初は戦艦としての構造物全てを撤去して、完全なる航空母艦にしようとしたのですが、
それには1年半くらいの時間が必要です。
そういった状況の時、ミッドウェー海戦の少し前、
戦艦日向が射撃練習中に5番砲塔で大事故を起こし、使用不能になっていたのです。
海軍はそれを見て、伊勢、日向の2艦の主砲6基のうち、後部2基を撤去し、
航空甲板にして航空戦艦にする事を決定しました。



資金も工期も短縮されて、一応は空母としての活躍が期待されました。
しかし、見て分かる様に航空甲板は短く、航空機がこの短い甲板から飛び立てるとは思えません。



発進はカタパルトと呼ばれる、火薬の爆発力による急激な発射で行われました。
カタパルトは2基あったので、比較的短時間で全航空機の発進を行う事ができました。
ところが、困った事に、飛行甲板の短さは、
出撃していった攻撃機を自艦に着艦させる事ができないのです。
ではどうするか?
他の空母の甲板を借りて着艦するか、陸地の飛行場まで飛んで行くしかないのです。
しかし、そういった問題は全く起こりませんでした。
というか考えようにも、考える必要が無かったのです。

と言うのは、この限られた短いスペースに最適の航空機は、
限られた機種しかありません。
「彗星」と「瑞雲」でした。
しかし、これらの開発が遅れたのと、搭載される前に、台湾航空戦が始まり、
彗星と瑞雲はそれに駆り出されて居なくなってしまったのです。

搭載機が1機も無いままに、2隻の航空戦艦はフィリピン沖海戦に出撃したのです。
結局これが彼等の最後の戦闘になり、以後は呉軍港から動けないままでの終戦。

無駄など出来ない時間と資金を注ぎ込んでやっと造ったのに、
結局は航空戦艦の意味は全く発揮できないままの、悲劇的な末路でした。

戦艦の攻撃力、防御力。航空母艦としての航空機の活躍。
絵に描いた餅だったのです。
航空戦艦は、やはり漫画の世界の絵空事だったのですね。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一生に一度は行ってほしい城 | トップ | 本当にガッカリさせられたニ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

軍艦」カテゴリの最新記事