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天城山心中・天国に結ぶ恋

2018-09-15 09:44:11 | 日記
1957年(昭和32年)12月10日。
伊豆・天城山で男女二人の心中遺体が捜索隊により発見されました。
いわゆる天城山心中事件です。



男性は、学習院大学生の大久保武道(20歳)




女性は、愛新覚羅慧生(あいしんかくら・えいせい)19歳。
彼女は学習院で大久保の同級生でした。





この心中事件は当時の世間を震撼させた大事件となりました。
まだ子供だった私も、
愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)という不思議な名前をハッキリと覚えています。

彼女は、愛新覚羅溥儀(ふぎ)
つまり清朝最後の皇帝(ラストエンペラー)の姪。
皇帝・溥儀の弟・溥傑(ふけつ)の長女なのです。

皇帝・溥儀は清朝滅亡後・
日本軍の傀儡国家・満州国の初代皇帝になります。
日本軍が滅んで満州国も滅亡後は、一般人となりました。



その弟が、愛新覚羅溥傑で、
彼は日本人である、嵯峨侯爵家の娘・浩(ひろ)と、政略結婚します。
浩の長女として生まれたのが、慧生でした。

一方、大久保武道は、青森県・八戸市出身で、
父の弥三郎は八戸市議・南部鉄道常務、
八戸の漁具問屋を経営する裕福な家庭に育ちます。

大久保は合気道が強く、バンカラを地で行くような学生でした。
質実剛健・猪突猛進・愚直な性格で、
都会的で洗練された学習院の中では異質な存在でした。

二人は1956年4月に、
学習院大学・文学部・国文科に入学して知り合います。

慧生は美しく社交的で快活、いつも学生の中心に居る存在であり、
クラスの中で東北弁なまりで一人ぽつねんとしていた大久保に声をかけ、
気を配るといった関係から、二人の交際は始まってゆきました。
大久保は自分に優しくしてくれる慧生に感激し、女神の様に崇めますが、
慧生に心を寄せる男子も多く、大久保は特別な存在ではありませんでした。

6月・・大久保は初めて慧生を自宅まで送りますが、
他の学習院生とあまりに違う大久保の風体に、
慧生の家族の反応には厳しいものがありました。

大久保は「命がけ」という言葉をよく使い、
慧生に思いを寄せる他の男子学生との間に、決闘騒ぎも起こしています。

11月、慧生が体調を崩して大学を休むと、自宅に大久保が訪れ、
家族から面会を断わられても全く動こうとせず、家族から疑惑を抱かれます。

翌、1957年2月。
二人は長時間話し合って婚約を決めます。
しかし、その後、冷静さを取り戻した慧生は友人達の猛反対に会い、
何度も大久保に「婚約解消」を持ち出しますが、
その度に大久保が自暴自棄になって解消は立ち消えになるという事を繰り返します。

11月には、慧生は大久保に
「貴方が好き」といった内容の手紙を何通も書いています。

12月2日。
慧生は少なくとも3人の親しい友人にSOSのサインを送っています。
バッグから拳銃を取り出し、
「大久保がこれで自殺すると言っている」と話しています。
友人達はみな、大久保の自殺願望を知っていたのです。
この拳銃は大久保の父親が軍隊時代に持っていた物でした。

12月4日。
慧生は大学へ向かったのを最後に消息を絶ちます。
夜7時頃、自宅に戻らない事から、家族は関係各所に電話をかけ始めます。

その頃、伊豆の湯ヶ島の派出所に、
伊豆の山中で若い男女を降ろしたというタクシー運転手から、
「心中でもする気ではないか」という届けが入ります。

12月5日。
慧生から友人宅に最後の手紙が届き、
思い詰めた大久保に同行するが強制された訳ではないと書かれていました。
また、大久保と同室の寮生から、
2日前に身辺整理をしていたり、伊豆の地図を見ていたという証言が入ります。

12月6日。
寮生たちが伊豆方面に捜索に出ます。

12月7日。
慧生の友人達や、地元の消防団・警察が捜索に加わります。
タクシー運転手の証言では、「天城山まで行ってくれ」と言われ、
女性は「帰りましょう、ねえ、帰りましょう」
「今ならまだ間に合うから帰りましょう」と言い続けていて、
帰りのバスの時間を運転手に訊ねていたそうです。
午後5時に下車。
日暮れも近いので「お待ちしましょうか?」と言うと、
「帰っていい」と言ったそうです。

慧生は登山道に沿って、学習院のサークルチラシをちぎって行き、
目印を残していました。



12月10日。
天城山頂トンネルから八丁池へ登るコースの雑木林の中で、二人の遺体が発見されました。
拳銃で頭を打ち抜いていました。

慧生の母、浩や嵯峨家では二人の交際を認めてはおらず、
事件は無理心中であるとしていますが、
大久保家では、二人は合意の上での情死という認識で、
大久保家の墓には慧生の名前が刻まれているそうです。

慧生の一周忌を記念し、
1959年には、母親の浩が自分の半生記「流転の王妃」を出版し、
その中で慧生に死ぬ気はなく、心中ではないと主張しています。

また伯父の溥儀は自伝「我が半生」で慧生の死について、
恋愛の為に自殺したとしており、
無理心中を主張する嵯峨家に対し、
愛新覚羅家では同意の上の心中と認識されています。

慧生の親友は、
彼女はいつも大久保の母親の役割をしていた。
彼の自殺を思いとどまらせ様と一生懸命だった。
彼女は人を拒まない優しい性格で、その優しさが命とりになったんだと思っています。
彼女は本当は死にたくなかったんだと思います、と語っています。



「天城山心中・天国に結ぶ恋」は映画化され、ヒットしました。



愛新覚羅慧生を演じたのは、三ツ矢歌子でした。


彼女の親友が言った言葉。
「彼女は本当は死にたくなかった。
彼の自殺を思いとどまらせ様と一生懸命だった」
それが、本当のところだったと思います。
死ぬ気の人間が帰りのバスの時間は訊きませんよね。

私の歌仲間の女性で、
慧生と同じ様に、いつも他人の事を思いやり、
断れない性格の人が居ます。

愛新覚羅慧生の悲劇的な死を思うたびに、
歌声仲間の彼女の事を感じてしまいます。







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