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特設砲艦物語

2023-10-07 07:06:03 | 軍艦


旧日本海軍には、戦艦大和から始まって、
艦首に(菊のご紋章)を頂いた、正規の軍艦が沢山、活躍しました。
ちなみに駆逐艦には、菊のご紋章はありませんでした。
海軍軍人となったからには、そういった(立派)な軍艦に乗れるものだと、
全員が思っていたでしょう。
しかし中には、いわゆる(軍艦)には乗れずに、
「何で俺がこんなのに乗らなきゃアカンのだ」という、
軍艦もどきみたいな船に乗る羽目になった、不運な軍人もいたのです。

その中に、仮設砲艦という軍艦もどきがありました。





こういった船は(砲艦)とも言えず、(監視船)といった方がいいのか?
漁船を徴用して海軍に入れ、アメリカ軍の動きを発見しては、その報告をするのです。
船は100トンにも満たない低速な木造船で、武器といっても機関銃2丁を積んでいる程度の、
丸裸同然のお粗末な船でした。

しかし、日本本土が初めてアメリカ軍の空襲を受けた、ドーリットル空襲。
昭和20年3月10日の、死者10万人に及ぶ東京大空襲の際、
襲ってくるアメリカの爆撃機Bー29接近を最初に報告したのは、
こういったお粗末な船だったのです。

アメリカとしては、こういった軍艦もどきの船に、
重要な作戦を無線で報告する、こいつらは目障りで目の敵にしました。
ですから、彼等を発見すると空から襲って来るし、
潜水艦からも激しい攻撃を受けました。
それに対する攻撃兵器を殆ど持たない船は、悲惨な最期を遂げたのです。

それではいけない、もっと強力な船をと海軍は考えました。





新たな商船を徴用して、その任務に就かせましたが、
確かに木造ではなく鋼鉄製の商船ですが、
船足は精々時速15キロ~20キロ程度。

そんな船への軍務に就かされた、ある予備少尉がいました。
商船学校を卒業した彼は海軍予備少尉として招集され、海軍士官として配属されたのです。

そして海軍から特設砲艦乗り組みの指示を受け、その船と対面したのです。
特設砲艦という船種がどんなものなのかも知らず行った先に在ったのは、
2000トンに持たないボロ船が停泊していました。
兵装は8センチ砲が4門。
といっても明治〇〇年製とかいう骨董品です。
その内続々と乗組員が配属されて乗り込み、総員70名程度になりました。
と言っても、軍人とは無関係の一般人などが半分はいます。
中には60歳代のただのオッサンなどもいたのです。

こんな船でも海軍としての任務は果たさなければなりません。
本土を出港して20日間といった太平洋での監視任務に就いていました。
元々軍人意識の薄い軍艦もどきですから、港に帰るとなると、
やれ娘の嫁入りがとか、女房が病弱でとかの話を、
涙ながらに話すといった具合で、軍人の勇ましさとは無関係でした。

この予備少尉がこの船を降りる日がきました。
彼は中尉に進級して駆逐艦乗務を命じられたのです。
オンボロながら愛着の残る船を降りる時は、様々な想いが胸をよぎりました。
それから間もなく、この船は宮城県の金華山沖で、
消息を絶ってしまいました。
アメリカ潜水艦の敷設した機雷に触れたと推測されますが、
あの懐かしい温顔の船長も、アル中の砲術長も、愛すべき老兵たちも、
一瞬にして吹き飛び、ひっそりと海底に眠っているのでしょう。

戦艦、航空母艦、巡洋艦、駆逐艦といった軍艦の陰で、
華々しい栄光とは無関係の任務を務め、
その死を語られる事なく、時代の陰に消えていった尊い命。

本当に戦争というのは残酷なものですね。


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