私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー喜智の気転

2012-08-01 12:57:22 | Weblog

 幕が閉まりました。それでも、小雪にはもう起き上がるだけの気力はその体の中にはないかのようにぐったりとその場に倒れ込みます。それと見た喜智はすぐ己の腕の中に抱きこむようにその身を優しく抱き起こします。小雪の体は火の如くに熱く、すやすやと寝息を立てながらぐったりと、その身を喜智の腕の中に横たえています。「小雪さんどうしたの」と呼びかけても、何も反応はありません。唯その美しさが余計に引き立ているように見えます。喜智は、そんな小雪を見て、咄嗟の気転でしょうか、かって聞いたことがないような大声で呼び起こします。
 「小雪さん、どうしたん。しかりして。美しかったよ。本当の天女だよ」
 そんなお喜智の呼びかけの声も、届いていないのでしょうか、小雪はじっと目を閉じたままピクリともいません。須香も、きくえ、お光、お真木も、反対の左の袖口から菊五郎、十徳も心配そうに駆け寄ります。
 
 幕の向こうでは、山をもとよもすような、ものすごい拍手の渦が巻いています。「小雪」「小雪」という大声で、その場へ立ち上がって叫ぶ人達が堰を切ったように、次から次へと続きます。客席は、それこそ騒然としてどう収まりつくのかという空気が立ち込めます。
 そんな座席の嵐のような様子も、小雪の耳には届いてはいません、相も変わらず、目を瞑ったままぐったりと安心しきったように体ごと喜智に預けるように抱かれています。
 「誰か、中町の梁石先生をお呼びして、早く」
 喜智のせっぱ詰まったようなお声。丁度、そこへ駆けつけた万五郎が
 「おい、三、はよう先生を呼んできな」
 ちらりと後ろにいた乾児の一人に向かって、その声も幾分震えるように言いつけます。三と、呼ばれた、いかにもすばしっこさそうな若者は、もう駆け出してそこにはいません。
 「お喜智さま、大丈夫でしょうか」と、万五郎の、これまた心配そうな声。
 その智香の膝の上では、まだ、相も変わらず、小雪はぐったりとしたまま、幾分落ち着いたのか、今度は観音様のような笑みを浮かべるようにして横たわっています。
 喜智は、また、催促して、そこにいた須香や飛んできた宿のお粂さんに小雪の重い舞台衣装や帯をそっと緩めさせます。
 誰も何も言いいません。みんなは息を止めるようにそのようすを注視しておるだけです。
 舞台の外は相変わらずの「小雪っつ」というするどい掛け声で埋まっています。そんな幕の外側が騒然となればなるほど、反対に、幕の内には、細谷川の瀬韻も中山の松籟も、突然にその音を消しててしまったかのようなしじまな不思議な世界が広がっております。