私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

小雪物語ー騒然となる客席

2012-08-02 10:11:35 | Weblog

 
 客席では、依然として「小雪ー」「小雪ー」と、殺気立つような気配です。万五郎はどうしていいものか判断がつきかねたように、中腰のまま、小雪の顔色でも確かめるように、左の方に一歩よりました。その拍子に、小雪の帯絞めの左側に付けていた亀房が、何かの拍子に落ちていたのでしょう、踏みつけます。「ぐしゃっ」とあるかなきかのような音が舞台に立ちます。その小さな音に、小雪はふと我に返ります。しかも、あの喜智の腕の中に優しく抱かれている自分に気が付きます。
 「あ、お、お喜智さま、もったいのお・・おす」
 「気が付いたね。小雪さん、よう最後まで我慢したね。きれいだったよ。黙って、黙って、そのまま、そのまま。・・・・・今、お医者さまがおいでになられますからね」
 幕の外は、合いも変わらず「小雪ー」「小雪ー」と、何か以前にもまして不穏な騒然さに変わってきているような気がします。そんな様子に万五郎は何か苛立ちを隠せません。周りにいる須賀やきくえも、誰もが、この場をどうしたものかと思案顔です。その時です。
 「ちょっとお須香、ここを変わっておくれ。小雪さん一寸待っててな」
 と、言われて、小雪を須香に、そっとお渡しになられました。誰しもが「どうして、何を」という風に思います。その場にすくっと起ち上がった喜智は、しゃんと背筋を伸ばされ、それから、右の手で襟を押し伸し、膝元の裾をはらい、幾分乱れた着物を直します。そして、静々と、あたかも能役者かと思えるような足取りで、舞台の中央まで進んで行かれ、なにやら幕引きの人におっしゃられていましたが、幕の真ん中あたりがやや後ろに引き下げられ、その中に、さっともぐるようにして出て行かれてしまいました。幕の内にいる誰もが本当にあっという間の出来事でした。