私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

伊達政宗という武将

2011-11-02 09:22:31 | Weblog
 奥州62万石の大大名伊達政宗の処遇をあの秀吉も、家康もどのようにしたらいいのか判断に迷っていたことには違いありません。何せ「東北の王」と呼ばれていたぐらいに、このビスカイノも書いたように、強力で絶大な勢力を保持していたのです。関ヶ原の戦いの後、家康が征夷大将軍として江戸に幕府を開いたのですが、特に、外様大名の処遇には苦慮していました。仙台藩もその内の一つだったのです。

 その仙台藩の伊達政宗は、機会あらば、天下を徳川家から奪い、自分のものにと考えていた時があったのではないかという学者がいますが。その論拠となるものが、ビスカイノの「金銀島探検報告」の中にあります「我が基督教に心傾き」というたった9文字の中にあるのだそうです。

 というのは、基督教云々ではなく政宗の魂胆は、どうも、この当時、17世紀初頭、世界での最強国であったイスパニアと同盟をむすぶ事で徳川幕府を倒そうと考えたのではというのです。その為に基督教に関心を示しているように見せるために支倉常長のローマ法王との接見させたのではというのです。それもこれも皆伊達政宗の討幕運動のためではないかと言うのです。それが1613年、日本の慶長13年の事です。歴史書には現われてない日本の歴史の1ページである事は確かです。

 此の支倉常長のローマ派遣は、本来、外交権は国家が唯一持つものですが、1613年頃の日本の外交権は江戸幕府だけではなく、このように仙台藩や他いくつかの雄藩が持っていたと云うことを物語るものです。日本の歴史上に於いても大変珍しい政治体制の行われた時期だったと言えます。

 念のため、政宗は1636年70歳で死去しますが、その後、仙台藩もお家騒動などがあり、完全に徳川体制の中に組み込まれてしまいます。なお、基督教を幕府が全面的に禁止するのは寛永16年(1639年)の事です。

   一寸日本史のお勉強をしてみました!!!