陸前の諸港湾の測量に向っていたブスカイノ一行は、到来する冬将軍に備えて引き返し、1611年の12月30日に江戸に到着します。その江戸で徳川秀忠等の幕府の要人と逢いますが、其の時、江戸にいたイギリス人やオランダ人たちから聞いた話として、次のような話をビスカイノに語ったたのだそうです。
「イスパニア人は尚武の国民にして武技に熟したれば大艦隊を率ゐ来りて其国を奪はんとすることあるべし。己等の国に於ては此の如き許可を与へずと述べたり」
そして、将軍はそのイギリス人に対して
「若し之を許るさずば他国を恐れるヽものなるが故に卑怯なり。・・・・もしイスパニア全国来たりて彼に当るも彼は己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」
と言ったと云うのです。
此の話を聞いて、ビスカイノは
「我の重要なりとするは貿易の事の外になし」と答えたのだそうです。そしてそれに付けく加えて
「オランダ人は甚だ悪しき国民にして其王に叛起し、嘘言を吐き中傷をなすが故に之を信用すべからずと述べたり。彼等は我等と親密なりしが故に此の言を喜びたる」
当時のイスパニアとイギリスやオランダが相当いがみ合っていたのでしょうか、日本にまでその影響を及ぼしていたのでしょう。
でも、この文章から、特に面白いと思われるものは
「己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」
です。このように言わしめた徳川幕府の姿勢には驚かされますよね。此の自信は何処から来ているのでしょうかね。まさか、鎌倉時代の蒙古襲来以来の日本国の強がりでなないと思いますが。
時は、まだ、徳川幕府が成立して間もない1611年です。関ヶ原以後の騒乱がまだ依然として続いており、徳川幕府も未だに盤石な体制をなしてない時なのです。
私は、この文章は、どうも、ビスカイノが眼にした当時の日本の国力の高さから推察して、そう書かしめたのではないかと思うのですが、どうでしょうかね????徳川幕府には、当時、そうと言い切るだけの自信は、まだ、なかったのではと思われますが。
それは京都での人々の生活を目にしてから余計にそう思ったのではないかと強く心に残ったのではないでしょうか。それがこの文章になったと私は思うのですが????
「イスパニア人は尚武の国民にして武技に熟したれば大艦隊を率ゐ来りて其国を奪はんとすることあるべし。己等の国に於ては此の如き許可を与へずと述べたり」
そして、将軍はそのイギリス人に対して
「若し之を許るさずば他国を恐れるヽものなるが故に卑怯なり。・・・・もしイスパニア全国来たりて彼に当るも彼は己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」
と言ったと云うのです。
此の話を聞いて、ビスカイノは
「我の重要なりとするは貿易の事の外になし」と答えたのだそうです。そしてそれに付けく加えて
「オランダ人は甚だ悪しき国民にして其王に叛起し、嘘言を吐き中傷をなすが故に之を信用すべからずと述べたり。彼等は我等と親密なりしが故に此の言を喜びたる」
当時のイスパニアとイギリスやオランダが相当いがみ合っていたのでしょうか、日本にまでその影響を及ぼしていたのでしょう。
でも、この文章から、特に面白いと思われるものは
「己を守るに足る兵士を有し、之を恐るヽことなく何等懸念することとなし」
です。このように言わしめた徳川幕府の姿勢には驚かされますよね。此の自信は何処から来ているのでしょうかね。まさか、鎌倉時代の蒙古襲来以来の日本国の強がりでなないと思いますが。
時は、まだ、徳川幕府が成立して間もない1611年です。関ヶ原以後の騒乱がまだ依然として続いており、徳川幕府も未だに盤石な体制をなしてない時なのです。
私は、この文章は、どうも、ビスカイノが眼にした当時の日本の国力の高さから推察して、そう書かしめたのではないかと思うのですが、どうでしょうかね????徳川幕府には、当時、そうと言い切るだけの自信は、まだ、なかったのではと思われますが。
それは京都での人々の生活を目にしてから余計にそう思ったのではないかと強く心に残ったのではないでしょうか。それがこの文章になったと私は思うのですが????