私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

沖の石

2011-10-28 12:00:14 | Weblog
 「末の松山」で道草を終わり、再びビスカイノに戻ろうかと思ったのですが、久しぶりに、例の筆敬氏からメールが届きました。

 「末の松山をけえてえて、せえでおわりょうたんじゃあおえんど。おめえもしっとろうが、末の松山とくりゃあ、どうしても、そのあてえ、あの沖の石にちいても、かかにゃあおえりゃあへんど」

 と、是又、誠に貴いご忠告です? 相変わらず「ひつけえなあ」と思いながら、其の沖の石について、又、ちょぴり調べてみました。

 まずは「奥の細道菅菰集」から
 芭蕉の奥の細道に書いてある「野田の玉川沖の石を尋ねる」の解説を曽良が書いています。

 「野田の玉川本朝六玉川のうちにて名所なり。「夕されば汐風こしてみちのくの野田乃玉川鵆なく也」 能因 沖の石は末の松山のうちにあり 千載集「我が恋はしほひに見えぬ沖の石の人こそしらねかはく間もなし」 二条院讃岐 按ずるに、ここの沖の石はこの歌により後人附会して付たる名なるべし。讃岐の歌は、ただよのつね海洋ある所の石を云う。この末の松山の石に限るには非ず。」

 曾良が言うように「沖の石」は、後の世の人が無理にこじつけて、そうです。「府会」して付けた名前なで、二条院の讃岐は、末の松山の傍にある沖の石を詠んだのではないようです。

 筆敬さんのお陰で、こんな事実が分かりました。私は末の松山と沖の石は陸奥の国の歌だとばかり思っていたのですが、そんな新しい発見でした。

 昨日取り上げた「和歌名勝志」には、末の松山はありますが、この沖の石はでていません。念のために。なお、今回の大津波でこの沖の石までは浪が押し寄せたのだそうです。