私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

ビスカイノが見た1611年頃の駿府城

2011-10-12 15:54:24 | Weblog
 このビスカイノのもう一方のこの旅行の任務は、17世紀初頭、当時、イスパニアが支配していたメキシコからルソン島の間を航行していたイスパニア船が、台風などの遭難を避けるために日本の太平洋沿岸の港を使わせてほしい。その為に、太平洋岸の港を測量するので許可してほしいと幕府に願いを届に来ていたのです。その為に、直接、将軍家康に接見したのでした。この本によると、その時家康は、まだ、江戸ではなく駿府にいたのです。

 その家康の駿府での生活の一部を書き留めています。

 「当地に到着せし以来皇帝は食事並に宿泊の支払いを命ぜず、頗る不行届勝なりき。最初に其子皇太子(秀忠)の許に行きて使命を述べたるが故に、少しく憤りたり由なり。」
 と書いています。少々其の待遇に冷淡さがあったのでしょうか。無視されているように感じられたのでしょう。それが原因であったのかなかったのかは不明ですが、次に、この家康についてやや批判めいた記述が見られます。
 「彼は年老いたるが故に、毎日一千の異りたる考を抱き、其家臣並びに国務会議員(いわゆる老中などの幕閣たちです)等は何人も彼に語るの勇気なく、特に利害に関する事に於いて然りという。」
 家臣たちは何人たりといえども、家康の政治に、何もくちばしを入れることはできず、彼の政治に対して、凡て、「然り」。ご無理御尤も、其の通りでございます。と言って、誰も反対意見を言う者はなかったと云うことです。彼の独裁に任せたと云うのです。現代のカダフィー流な独裁政治であったのでしょうか。「然りと言う」と言うのが面白いと思いませんか。
 
 なお、当時、家康は七〇歳で、既に将軍の位は秀忠に譲り、駿府に引退して「大御所様」と呼ばれていたのですから、ビスカイノの見た皇帝家康ではなく、其の事についてはあやまちです。家康は1616年75歳で亡くなっています。

 将軍職を退いてからも依然として将軍以上の睨みは聞かせていたのでしょう。幕府の地位がまだ言ったって確立していない時代です。その為の政治体制を敷いていたのでしょうか。江戸と駿府の二か所からです。それも絶対専制政治をです。そこら辺りの配慮はどこから出たのでしょうか。本多正純辺りからではなかったかと思われます。