私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

枝さしかはす岡山の松

2010-05-24 11:53:09 | Weblog
 16日間の、お供1000人を連れての大名行列でした。それこそ周りの苦労も何も知らない19歳の若殿の気楽な初上りだったと思います。

 綱政の歌紀行は、これで終わっていますが、その結び言葉として、次のように書いています。

 「足引の山の言の葉、わたつみつらの藻塩草、書きあつめ一巻となす事、うたて心のあるに似たれど、白妙の白色は、色のもとならん、うば玉の黒き色はいろの末ならん、黒を白にそへてぞ青白なるけじめあらはなり、これをよすがにておこがましき事なれど、忘れし今を後の年にもしのばん、かつは人にみゆべきものならねば、朝たつおのの浅茅はら、日もくれ竹のうきふしぶしをのべけるとぞ」

 色々な過去の文献を頭の中で組み立てながら、鋭く旅の様子を捉えた隠れたる優れた日本の文学作品の一つだとも思うのです。
 ・・・朝たつおのの浅茅はら、日もくれ竹のうきふしぶしを・・・、だなんて、どこかにあったのかもしれないような文章ですが、ちょっと、岡山弁でいう「こずらにきい」ような書きぶりではないですか????

 こんな冴えた能力の持ち主だったからこそ、あの後楽園も、そして、その後の日本の干拓事業の先駆けとなるような備前の一大干拓事業が来たのです。彼の先を見通す先天的な力に負うところが大きかったのではと思います。
 また、津田永忠などの有能な多くの藩士にも恵まれるという幸運にも味方され、彼らの能力を思う存分に発揮させた綱政の為政者としての才能が先天的に備わっていたことも備前岡山に天が与えた幸運であったと思われます。
 
 何回でも言います。決して、江戸幕府が思っていたと言われるような、暗愚んな大名ではなかったのです。

 なお、この歌紀行で一番最後に詠んだ歌が

   色ふかく 君が恵みに 末葉まで
                枝さしかはす 岡山の松

 です。

 これで、ほんの少しと、宝泥氏にご指摘されて始まった綱政侯でしたが。ついつい長くなりましたが、これにて、一応、終わりにします。