私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

六日のあやめ

2010-05-06 08:08:10 | Weblog
 昨日、端午の節句について、書き忘れていたことがありましたので、今日、書きます。これって「六日のあやめ十日の菊」だと思いますが。

 まあ、こう書いておきますと、あの宝泥氏からの厳しい攻撃はないと思いますので。
 
 それは「粽」のことです。我が家では、毎年、新潟から粽を送っていただいています。
 と、いう事からではないのですが、端午の節句と粽がどんな関係があるのか知っておいでですか。それについて調べてみましたので書いておきます。

 伝説によると、昔、中国の楚の国に屈原という人が五月五日に河に身を投げて自殺します。人々が屈原を憐れんで、五月五日の厄日ごとに竹筒に米を詰めて、その川に投じて霊に供したのが始まりだと言われています。

 室町時代ごろから、宮中で使う粽を納めるお店が決まっていたのだそうです、その名は「川端道喜」です。ちなみに今日までも、このお店はあります。やはり粽が名物です。
    
  これが宮中に納めていた川端道喜の「ちまき」です。現在は、こんな形をしているのかどうかは分かりませんが。これも念のために。餅を包みこんでいる材料はイ草です。


 吉備の国では、あの吉備団子が有名ですが、此の粽は、今では一般には「かしはもち」が用いられており粽は大変珍しくなっています。五月五日は、この「かしはもち」を食べるのが普通のように思われているのではないでしょうか。

 でも、わが家では、何時も、五月のお餅は、前に申した通り、新潟のクマザサにくるんだ粽を頂いております。

端午の節(せちえ)

2010-05-05 09:54:45 | Weblog
 5月5日、こどもの日です。昔から端午の節句、男の子のための節句とされてきました。
 端とは「はじめ」と言う意味があります。午、即ち、うまの日。5月の初めの午の日という意味です。「午」は「五」であるから、端午は五月五日であるとされたとあります。
 なにははともあれ、ゴールデンウイークの最後の日です。

 この端午の節句が、わが国では何時ごろから始められたかという歴史はよく分からないのだそうです。一説によると聖武天皇の時には既にあったという記事も見えます。万葉集にも「ほととぎす啼く五月(さつき)には、あやめ草、花たちばなを玉に貫き、かつらにせん・・・と歌われ、それは「昔しは」と、いっているくらいですから、相当古い時代に中国からに日本に入ってきたことは確かです。

 この端午の節句の「をかし」を、清少納言の「枕草子」では、次のように、書いておりますです。

 一寸長たらしいのですが、その三十六段をさわりをちょっと書いてみます。声に出して読んでみるのも端午の節句らしくていいものですよ。


 「節(せち)は、五月にしく月はなし。
 菖蒲・蓬などの薫りあひたる、いみじうをかし。九重の御殿の上をはじめて、いひ知らぬ民の住家まで「いかでわがもとにしげく葺くかむ」と、葺きわたしたる、なほいとめづらし。いつかは、ことおりに、さはしたりし。
 ・・・・・・・・・・・・・・・。
 地(つち)ありく童女などの、ほどほどにつけて、「いみじきわざしたり」と思ひて、常に、袂まぼり(きにして)人のにくらべなど、「えもいはず」と思いたるなどを、そばへたる小舎人童(こどねりわらは)などに、引き張られて泣くも、をかし。
 紫の紙に楝の花、青き紙に菖蒲の葉、細く巻きて結ひ、また白き紙を根してひき結ひたるもをかし。・・・・・・」

 と、書いています。
 
 1000年前の京の風景です。今はこんな風習は廃れていて見ることはできないのですが、そんな文章に出逢うと、懐かしいような何か心が洗われるような感じがするから不思議です。やっぱり日本人ですかね。

あやめの輿

2010-05-04 10:00:06 | Weblog
 4月29日に「今日はみどりの日だね」と言って、孫に嘲ら笑いされたばかりですが、今日も、又々、今度は幾分の憐れみに似た憫笑と言うんでしょうか、そんな笑い顔をされました。
 「今日も祝日の名前のないお休みの日だね」
 と。
 
 「何かへんてこなことを言ったかな」と、カレンダーをこっそりと覗きます。するとどうでしょう、3日の下に赤い小さな字で「みどりのひ」と書きこまれてあるではありませんか。如何に電光石火な時代とは言え、全く、そんなことになっているなんて、もう何年にもなるのだそうですが、気がつかずにいたなんて鈍間な年寄りだったのかと反省しきりです。

 でも考えて見ると、29日の「みどりの日」を「昭和の日」として、良い意味であるのか悪い意味であるのかは知りませんが、「昭和」という文字を後世に残さなくてはならないような特別な意味が、この2つの文字の中に秘められているようなことはないように思われます。
 やっぱり、古いと言われるかも知れませんが、29日は「昭和」より、「みどり」の方が一段と文字としては光り輝いて見えるように思われるのですが。「憲法記念」と「こども」の間にはさがっているよりは、その両者の前にでんと腰を落ち着けるようにあるのが私は好きです。緑がいや増しに輝いているように思われます。

 そんな気持ちが天に通じたのかもしれませんが、今朝から吉備の中山の緑が靄の中にかすんでぼんやりと見えます、29日の緑の方が一段と晴れやかできれいでした。

 天のみ知るか、人の為す意味のない可笑しさを、それこそ憫笑しているのではないでしょうか。

 なお、今日、5月4日は「あやめふく」といって、宮中の近衛などに「あやめの輿」を作って階の両側に立てたりもしたそうです(増続山井四季之詞より)が、この風習は、今では、完全に姿を消してしまっているのだそうです。

 なお、あやめの輿を調べてみました。写真のような形をした菖蒲や蓬(艾)で作った飾りもののようです。

              

 この宮中での行事が、一般に広がったて、現在では、そんな風習も見えなくなってしまっていますが、菖蒲と蓬を、一本のわらしべで、一括りにして屋根の上に投げるあげる風習になって伝わっていると言われています。

 今日、4日に、私も菖蒲と蓬を取ってきて屋根に投げ上げています。

増続山井四季之詞

2010-05-03 09:43:39 | Weblog
 今日は、5月3日「憲法記念日」です。
 朝から五月晴れの好天気です。そうです。「さつき」なのです。でも、ちょっと考えて見ると、どうして5月がさつきなのでしょうか。一帯さつきとは何でしょうか?? 

 そこで、私の持っている江戸の文化年間にでた高井蘭山の「増続山井四季之詞」をひも解いてみました。

 それによると、〈五月は「さつき」「月見ず月」「たちばな月」「仲夏」「皐月」と呼ばれ、「早苗月」といふを略して「さつき」といへり〉
 と書いています。
 
 この「五月」と言う文字が、日本で一番初めに出てくるのは「日本書紀・神代紀」です。
 それによると、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が、八十神たちにみことのりをした時に、葦原の中国(なかつくに)の様子を、
 「夜は業火の乱れ立つが如く喧響であり、昼は五月蠅なす沸騰(わきたつ)がごと騒ぎ立って居る」
 と仰せられたとあります。この五月蠅を「さばえ」と読ましています。ご参考までに。
 
 さて、この本に書いてあるように、「早苗月」が「さつき」になったと言う説に対して、次のような反対する意見もあるらしいのです。
 
 それによると、五月には早苗だけでなく晩稲(おくて)も植える時期だから、何も早苗だけ離してこの月を「さなえつき」とするには、いささか合点がいかない。むしろ「小苗取る月」として考える方がよい等と、この五月についても、本居宣長が言うように、今まで色々な意見が出てきています。

 でも、何はともあれ五月ーさつきです。緑の風に代表される爽やかな季節であることには間違いありません。

 遠くに鯉幟が、その五月の風に、はためいているのに出会うと“甍の波と雲の波・・”と何だか心まで華やいだ気分になり、幸福な気分になったように思えるではありませんか。

 5月って本当に心を幸せにしてくれる月です。幸い月ですね。これこそ本当の「さつき」ではないでしょうか?????

お竈殿の響きが回廊を流れています

2010-05-02 13:37:20 | Weblog
 未だに冬服と別れられないひんやりとした今年の五月の朝です。
 今朝、我が町吉備津の各町内ごとに行われます夏の祈禱が吉備津神社で行われました。

 いつもの通り、拝殿でお払いを済ませた後に神殿に上がっての、町内の安寧を祈っていただく祈禱です。真っ赤に塗られた輝くばかりの漆塗りの朱の壇の前に、参加者全員が慇懃にひれ伏して祈祷を戴くのです。

 他のいかなる神社でも、例外なしに祈禱して頂くのは拝殿ですが、この吉備津神社だけは神殿にまで昇殿して、その「朱の壇」での祈禱をうけます。それだけ神の御前が近いので、有難さが倍増されます。
 この神殿での祈禱について、昔は拝殿が、今の朱の壇であって、拝殿はその後に作られたからだと、その理由を説明しているようです。
 それも含めて、この神社は他の神社とは、少しばかり造りが変わった、他所にない此処だけにしか見られないような神社でもあるのも確かです。
 北向きの社もそうです。正面に桟唐戸や蔀戸が見られたり、天井を張らない化粧屋根裏が見えたりするのも、その理由になっているようです。

 まあ、そんな他にはない国宝「吉備津神社」だけの造りを見せる神社での御祈祷です。有難さがいっぱいに頂けるような思いが朝から身を包んでくれます。

 「たかが神だ。そんなものがおるもんか。おったとしても、それがどうしたんなら」という科学的で合理的な考えが、世の中を席巻しているように思えますが、それだからこそ、5月の朝早く清幽な神殿に首を垂れて、己を何もない「無」の世界の中に没入させているのも、善い悪いは別にしても、また、それなりの意味があるように私には思えます。
 でも、まだ、我が町内でも多くの人が、
 「町内祈祷?なんだ。そんなん古臭えやー。阿呆らしうてつきあいきれんは。この忙しいのに。係のもんがいきゃあえんじゃが、どうすりゃあ、そげえなものを」
 と、お考えでしょうか????お参りにならない人も多くおられるのが現状です。

 その神殿での祈禱が済むと、それから、長い回廊を通ってお竈殿にまで移動します。そこで、あの「温羅」のしゃれこうべからのお告げを受けるのです。この夏も、一際、大きな唸り声が釜の中から響いてきて、
 「お前の町にもきっ福を」
 と、お告げを頂きました。その声は、高く低く回廊までを通り越して、吉備の御山にまで達しておりました。

 幸先よい夏への第一歩でした。心は豊かになったように感じられました。

柴の庵

2010-05-01 10:58:50 | Weblog
 逢坂を越えて、綱政侯の一行は伏見に着いたのはたそがれ時でした。

 「伏見の柴の庵に入りぬ」と書いてあります。

 この柴の庵とは粗末な宿と言う意味でしょうか、これも綱政侯らしい書きぶりです。そんなに粗末な宿であるわけがありません。32万石の大大名です。それも初上りです。それを例の方丈記の長明流に、伏見の宿と言う事も相まって、柴の庵としゃれたのではないかと思います。広い知識を持っていた証拠です。愚鈍どころの話ではありません。
 ひょっとしたら、江戸の幕府は、あの業平に見立てて、中国流の詩でなく、和歌に精通していると言う事がら、このような人物評をでっち上げたのかもしれません。でも、この人は将軍家光の従兄弟に当たるお方なのですがね。

 あまりこのことは知られていないので、何回でも書きますが、綱政侯の母君は、あの家光の伯母「千姫」の唯一人のお子様である勝姫です。そんなに愚鈍だなんて書けるはずはないと思うのに、公儀隠密が作ったと言われている幕府の文書「土芥寇讎記」の中に見えるのです。

 この歌紀行を読んでいくたびに、その不思議さに驚いています。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、再び、綱政侯の文に戻ります。

 「・・伏見の柴の庵に入りぬ。夜更くるほど月あかふさへわたり、此ころの旅のやどりにてあわただしかりしもうせて、心しづかに閨にて詠る嬉しさに

     名にしあふ ここぞ雲井の あたりとて
                   月を伏見の 夜半ぞしづけき」

 月を伏見、そうです。月を臥して見るなんて心憎いではありませんか。二十一日の月です。十時ごろでしょうか、夜半のなんて静かなことだろうか、と歌いあげています


 十八日は宮、十九日は四日市、二十日草津ときて、此の伏見の二十一日に久しぶりに、方丈記にある長明が宿した同じ伏見にある宿に泊って、幾分たりとも精神的な心の安らぎが感じられたのでしょうか、「心しずかな閨」と、なったのでしょう。


 これには、その日に京で逢った人が大きく影響しているのではないでしょうか。これは憶測なのですが、多分、お公家さんである、当時、内府卿を務めておいでであった、一条大納言ではないかと思われます。この人がどんなお人であったかは不明ですが。