私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

柴の庵

2010-05-01 10:58:50 | Weblog
 逢坂を越えて、綱政侯の一行は伏見に着いたのはたそがれ時でした。

 「伏見の柴の庵に入りぬ」と書いてあります。

 この柴の庵とは粗末な宿と言う意味でしょうか、これも綱政侯らしい書きぶりです。そんなに粗末な宿であるわけがありません。32万石の大大名です。それも初上りです。それを例の方丈記の長明流に、伏見の宿と言う事も相まって、柴の庵としゃれたのではないかと思います。広い知識を持っていた証拠です。愚鈍どころの話ではありません。
 ひょっとしたら、江戸の幕府は、あの業平に見立てて、中国流の詩でなく、和歌に精通していると言う事がら、このような人物評をでっち上げたのかもしれません。でも、この人は将軍家光の従兄弟に当たるお方なのですがね。

 あまりこのことは知られていないので、何回でも書きますが、綱政侯の母君は、あの家光の伯母「千姫」の唯一人のお子様である勝姫です。そんなに愚鈍だなんて書けるはずはないと思うのに、公儀隠密が作ったと言われている幕府の文書「土芥寇讎記」の中に見えるのです。

 この歌紀行を読んでいくたびに、その不思議さに驚いています。

 まあ、そんなことはどうでもいいのですが、再び、綱政侯の文に戻ります。

 「・・伏見の柴の庵に入りぬ。夜更くるほど月あかふさへわたり、此ころの旅のやどりにてあわただしかりしもうせて、心しづかに閨にて詠る嬉しさに

     名にしあふ ここぞ雲井の あたりとて
                   月を伏見の 夜半ぞしづけき」

 月を伏見、そうです。月を臥して見るなんて心憎いではありませんか。二十一日の月です。十時ごろでしょうか、夜半のなんて静かなことだろうか、と歌いあげています


 十八日は宮、十九日は四日市、二十日草津ときて、此の伏見の二十一日に久しぶりに、方丈記にある長明が宿した同じ伏見にある宿に泊って、幾分たりとも精神的な心の安らぎが感じられたのでしょうか、「心しずかな閨」と、なったのでしょう。


 これには、その日に京で逢った人が大きく影響しているのではないでしょうか。これは憶測なのですが、多分、お公家さんである、当時、内府卿を務めておいでであった、一条大納言ではないかと思われます。この人がどんなお人であったかは不明ですが。