私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

富潤家徳潤身 心広体胖

2010-03-14 17:06:37 | Weblog
  居眠りをしておられるのではないかと心配した駕脇にいたの五左衛門は「「御前薩埵峠に御座ります」と呼びかけます。すると、光政侯は目をあけられて、五左衛門へ、
 「・・・儒学を学び、其印を求め、心を広く寛(ゆるや)にして・・・」
 と、話しかけです。
 この「心を広く寛(ゆるや)にして」と言う言葉が、中国の書物に「大学」の中にあります。それが「富潤家徳潤身 心広体胖」です。
 この言葉の意味は、あの私の漢文先生の説明によると
 「豊かな財産があれば、その家は立派に栄え、堂々と生活できる。それに対して、豊かな徳を備えて居れば、その人の身を立派にする。この徳を身につければ心が寛(ひろ)くなって、ゆったりとして落ち着いた生活が出来る、徳が己を潤した人の姿なのだ」
 と。
 薩埵峠で、光政侯が莞爾と笑われたのも、この言葉を見つけだされた後の話なのです。光政侯の人物の大きさを物語る一面です。
 この言葉を下地にして、光政侯は駕脇にいたの五左衛門へ話しかけです。

 この言葉を実際の藩の政治に反映しようと思いつかれたある夜より「特によく寝させ給し」と、光政侯は、安眠できるようになったのです。それぐらい言葉の持つ意義が実際に生きたのです。
 
 その言葉が岡山藩の実際の政治の中に反映されていったのです。それが新田開発や藩学校や閑谷学校などの教育施設の充実であったのです。

 光政侯についても少しばかりと思って始めたのですが、これもまた長談義になりました。以上で、光政侯については終わりにしたいと思います。 

応神天皇陵等の見学に

2010-03-11 10:27:35 | Weblog
 我が高松町には、定広会長を中心として、わが国第4位の大きさを誇る造山古墳を、再び、蘇らせ、その名を高めようとして作られた「造山古墳蘇生会」と言う組織が結成されています。
 この会が主催した“河内飛鳥を見よう会”と言うバスツアーに参加しました。
 今回は、造山古墳より大きいわが国1・2・3位の墳墓を見ようと言うのがその狙いです。それは仁徳・応神・履中の3天皇の御陵です。
 その3っつを見てきました。まず、写真を

     
 どうですか。この3つの陵墓は、どう見ても。ただの、こんもりと盛り上がった、お山に過ぎません。そこに沢山の大きな木が鬱蒼と生い茂っているだけです。大きさもその形も分かりません。日本中、どこでも見える当り前な風景です。そこに厳つい鳥居と玉垣が巡らせて無ければ、誰も、これが古墳だと言う事は分からないのではと思います。説明があって始めて陵墓であるのかと気が付くぐらいの事だと思います。
 それに引き換え、第4位の我が町の誇るべき古墳は、誰が見ても、大きな古墳だとすぐ分かる遺跡です。これこそ前方後円墳です。だから価値があるのです。応神天皇陵のように山としか見えないものが、如何に大きくあっても「前方後円墳」と呼ばれるだけの、学術的な価値は無いに等しいと言ってももいいのではないでしょうか。

 ちなみに、486m・425m・360mの巨大墳墓です。なお、造山古墳も360mで、履中陵と大きさではほとんど変わりません。

国民を教えやすんずべき

2010-03-09 10:49:31 | Weblog
 論語の言う、君子の儒、即ち、〈大局の見える学者〉の「学者」を藩主としての自分に置き換えて考えられたのだと思います。大局の見える藩主になって藩民を導いていくことが我が進むべき道であると考えられたのです。もし、これが真実としたなら、有斐録にあるような14歳の少年が思いつくようなことでは、決して、ないはずです。岡山藩主となられた24歳という時が、もしもあったとしても、普通では考えられないような驚くべき思い付きだと思います。
 それこそ、全部で何字あるのかは知りませんが、所狭しといっぱいに並んでいる論語の文字の中から「君子儒」というたった三文字を見つけ出して、これを、これからの自分が目指す藩政治の指針に据えようと思い付かれるとは、想像を絶するような壮大なる人物だったと言わざるをえません。更に、その三文字から
 「国民(くにたみ)を教えやすんずべき」
 と、この藩主は考えられるのです。孔孟の教えを、特に、孔子の教えを広めることによって、人々の心の平安を求める事が、自分の岡山藩政治の最も重要な働きであると考えられたのです。その為に、政治の中心たる武士の子弟の教育をまず設立して、次に、庶民の学校を開く計画を実行することでした。それが閑谷学校へと発展していきます。
 この光政の時代は、ようやく徳川幕府も安泰して、それまでの武威をかざした強権な武力政治ではなく、所謂、平和的な文治政治へと、漸次、移行しつつあった時代です。このような時代を背景として光政侯も、岡山藩内で、儒教を中心とした文治政治を実施することが、我が政治の基本だと思いつかれたのだとおもわれます。
 その光政侯の心を物語る逸話が、先に上げた「御前薩埵峠に御座ります」と、少将の駕脇にいたの五左衛門へ話しかけです。
 「・・・儒学を学び、其印を求め、心を広く寛(ゆるや)にして・・・」
 と語られたのですが、この心を広く、人々の胸の中に植え付けるようにする政策を実施するのが光政侯の政治の中心となったのです。
 その中心となるのが、前に上げた「大学」の中にある「富潤家徳潤身 心広体胖」と言う言葉だと思います。

 なお。光政侯の駕脇侍「五左衛門」について色々調べてみましたが、少将に仕えた者に「五左衛門」と呼ばれていた侍は「秋田五左衛門」がいたのだそうですが、この人については詳しい記録がありませんので、其人かどうかは分かりません。
 その他、脇木久五左衛門と言う人が光政侯お側に仕えていたのは分かっていますが、この人かどうかも分かりません。

君主の儒となりて

2010-03-08 11:17:09 | Weblog
 光政侯は、この国を藩主として、どのように治めたらよいかと、あれこれ考えていたために、随分長い間、安眠することも出来なかったと、仰せられるのです。
 しかし、昨日読んだ論語の中に「君主の儒となりて」というのを見つけ、「そうだこれだ」と、思い付かれたのだそうです。自分も[君主の儒となりて、国民を教えやすんずべきという事をしりぬ」。
 自分もこうなるのだとそう決断してから、あれこれと思い悩むことなく、よく寝むれるようになっのだと言われるのです。
 
 この光政侯がお読みになって、「これだ」と決断したと言う「君主の儒」とは、一体、なんでしょうか。どういう意味なのでしょうか。
 私も、例の漢文の先生のご説をたびたび伺ってきた者です。多少なりとも、論語のはしくれでもと思い、調べて見ることにしました。
 私も論語の解説書みいたいなものを学生時代に買った記憶があります。早速本箱をあれこれと捜しますと、片隅に小さくなって置いてありました。早速取り出して調べてみました。
 小難しい言葉がそこらあたりに広がっていて、遥として捉え所のないような文字がいっぱいに並んでいる本を、初めから少しずつめくって行きました。この「君主の儒」は、論語のどこにあるのかも、皆目、見当すらもつきません。仕方ないので、やっぱり、又、例の漢文先生の御厄介にならなければしょうがないなと思っいながら、何気なく立ち上がります。どうしたことか、その拍子に、この論語の本が、ぱっかと開きます。すると、何という不思議なことでしょう、偶然めくれたぺージに、「子夏に謂いて曰く、女(なんじ)、君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ」と、言う一文がこれ見よがしに並んでいるではありませんか。ご丁寧に、その後には『先生が子夏に言われます。『お前は君子のような器量を持った、大局の見える学者になりなさい。小人のような場末の事ばかり気にかける様な料簡の狭い学者になってはいけない。』 という、この言葉の持つ意味まで解説がしてあるではありませか。

 こんな偶然ってこともあるのですね。うれしくなって、今日はこれで終わりにします。

「・・・・思慮せしによりて、久しく寝られざりき

2010-03-07 12:24:08 | Weblog
 幾晩もの寝むられない夜を経て、「ある夜より特によく寝させ給し」と、あります。どうして、突然に眠られだしたのかも、また、近侍たちを驚かせます。何が起こったのだろうかと不思議でたまりません。「答させ給はざりし」という心配もありましたが、再び、恐る恐るではありますが、光政侯に〈其故を伺いまいらせければ〉、次のように、今度は、お答えになられたそうです。それが、又、随分と奮っているのです。如何に備前藩主光政侯であったとしても、これが十四歳の少年の言葉であったのかと驚かされます。

 本に曰く、
 「我 父祖の陰に依り、此大国を賜る事、分に超えたりと思へり。しからば、此国民(くにたみ)をいかにして治め養うべきと、さまざまに心を尽くして、思慮せしによりて、久しく寝られざりき。」
 と。
 
 祖父池田輝政、父利隆の大きな功績によって、此の大国を賜ったのは自分には分不相応なことだと思う。しかし、この栄えあるその大任を果たすためには、どのような政治を行っていけばよいか、昼夜を問わず、考えに考えていたから眠られなかったのだと、いわれるのです。

 もし、御歳十四というのが間違いのないものであるなら、超天才少年光政侯の、一国の藩主の心構えとして絶賛されて当然なことだと思われます。
 しかし、詳しく調べてみましたのですが、光政侯が、因幡伯耆藩主から岡山藩主に転封されたのは、寛永九年の六月の事です。光政侯がお生まれになったのは慶長十四年ですから、その時はもう既に、二十三歳になられています。だから、この話は岡山藩主になられる以前の鳥取藩主時代ではなかったかと思われます。ちなみに、光政侯が鳥取藩主に任じられたのは元和三年ですから、御歳八歳の時です。

 岡山藩主になられた二十三歳なら、それぐらいな力量は、当然、備えられていたのだと思いますが、とにかく、当時の多くの藩主(江戸時代の藩主の数は三百諸侯と言われています)の中にあって、名高い名君の一人であったことには間違いありません。それだけの素質を生まれつきに持っていたのだと、この筆者は強調したかったのではないでしょうか。

現実離れした14歳の光政侯

2010-03-06 14:19:08 | Weblog
 有斐録の(五)に、光政侯十四歳の時の事であったか?として載っています。14歳と言えば今ですと中学校の2、3年生頃の年頃です。
 それによりますと、

 光政侯が、未だ幼くして備前藩主になって、いくばくも経ってない時の事です。
 夜、寝床に入られても、なかなかに眠らせ給うことなくて、暁時近くになって、漸く、うとうとするぐらいであったのだそうです。幾晩もこの様子が続いたので、近侍の人々は、あやしみ、いかなることにやと、大層心配になってきます。思いあぐねたその近侍は、ある日、恐る恐る光政侯に尋ねます。
 [御心配事でもござりましょうか」
 と。
 しかし、光政侯は、「しかじか答えさせ給はざりしに」と書かれています。要するに、14歳の光政侯は、その質問に対して、「かくしかじかの理由で眠られないのだ」とも、何とも言われないのです。
 そんなことが幾日も続いたある夜のことです。その夜に限って、不思議なことですが、今まで、あれほど寝むられない夜が続いていたのが嘘のように、ぐっすりと、安眠なさいます。どうしたことでしょう。此の藩主光政侯の突然の変化に、また、近侍の者たちの心配が一層募ります。どうしたもんだろうかと重役方にも、また、相談なさいます。
 
 14歳の年で、幾晩も眠られなかったのが、ある夜を境にして、急に眠ることが出来るものでしょうか。それには何か大きな原因があったのに決まっています。それを、敢て、黙って自分お独りで、誰とも相談なく、解決できる事が可能でしょうか。14歳と言えば、普通なら迷いの多い年頃のはずですが、この光政というお人は、よぽど自分を処するに大天才だったのではとしか言いようがありません。

 裏を返して言えば、これは、光政侯の性格の一部面を強調しようとしたための表現であったのかも分かりません。あまりにも現実離れしていて、3、40歳に歳を置き換えていいような場面だと思えます。14歳では、これほどの芸当が出来るとは思いたくないような気がします。何か現実味が薄いように思われます。
 だからではないのですが、この記事の見られる「有斐録」の記事は大げさすぎる、現実離れしていて真実性に乏しいと言われる所以ではないかと思われます。


 蛇足:「見られる」と「見れる」。「眼られる」と「眠れる」。近頃やかましく議論されている「ら」抜きことばについてどう思われますか。ら抜き言葉でも、結構、いかすのではないかと思われますか?

心広く体胖かなり

2010-03-05 13:57:40 | Weblog
 「心広体胖」と書かれた木村睦夫の書の軸を私は持っています。あまり広くはご存じではないと思いますが、この人は、かって参議院の副議長をした岡山の人です。これを「心広くして体胖かなり」と読ますのだそうです。此の「胖」という字が分からなくて、あの漢文先生に聞いたことがありました。一度聞いたのですがあまり覚えてはいません。そこで、今日久しぶりに、あの珍聞漢文氏を訪ねてみました。例の通り誠に不愛想ですが、さすが専門家です。よう知っています。
 「むう、広く体胖かなりか。前にいっぺんおせえてやりゃあしぇんかったけえな。」
 とか、何とかぶさくさ言いいながら、沢山ある彼の本棚に向います。何やらあれやこれや引っ張りだしていましたが、しばらくすると「こんなとけえしもうてえたか」と、一冊の、誠に、古ぼけた薄汚い本を取りだしてきます。
 「その「広く体胖かなり」というのは、この本へあるんじゃ」
 と、ペラペラめくります。
 「こりゃあ、大学ちゅう本じゃどー。おめえがこねえだブログにけえとった、永忠が真似してこせえた社倉法を、かんげえちぃた中国の宋の時代の人がけえた本なんじゃあけえど」
  
     

  そんな話をしながら、珍聞漢文先生、その言葉が出ているページをめくってくれます。
 全部を講義していると時間がかかるので、この言葉が出ている「傳之六章」から「おせえたらあ」という事で彼の話が始まります。この「傳之六章」には、誰でも一度は耳にしたことがある「小人閑居して不善をなす」とか「其独りを慎む」という言葉が出でいるのだそうです。これも、また、それなりに彼の御説を拝します。
 「最後になったんじゃが、胖じゃが、こりゃあユタカと読むんじゃ。月はニクヅキで体を表す言葉に使われておるんじゃ」
 体が半分しかないのに、どうして豊かなのかと言うと、半分だからこそ豊かになれるんだと、いわれるのです。いっぱいあったらもうそれ以上、入る余地がないから、それ以上は豊かにはならないのです。でも、半分だからこそ、なんでもかんでも体の中に取り入れられるから、結果的に無限に豊かになるという理屈なのだそうです。どんなものでも、総てを取り入れるだけの半分の心を、いっつでも保って居ることが大切なのだと言うのです。
 君子はその意味をよく解して「誠す」とあるのだそうです。誠心誠意を持って誠を尽くすのだそうです。
 その半分の心を何時もいっぱいにするためには、光政侯が言うように怠らず勉学に励むことが重要なのだと言われるのです。この「怠る」と言うのは、決してそうじゃあないのですが、自分の心は、今、半分ではない、いっぱいになっているのだと言う慢心の現われであるのだそうです。
 「わしのように何時も半分の心で居るとええんじゃ」と、あのワハッハがでます。それを機に私もまた腰を上げました。

 なお、この言葉の前にある「富潤家徳潤身」についてもご教授して頂いたのですが、あまり長くなりますので、又いつかの機会にでも。

心もちを広く寛かにして

2010-03-04 10:49:22 | Weblog
 光政侯が「・・・・神の姿の形代よ」と道歌を歌い、脇侍に、それを何故、書き取らせたのかはよく分かりませんし、その内容も、自分の身がどうして神の形代なのかも何かよく分かりませんが、そんなことをあれこれと詮索することもないような道歌なのです。ほんの戯言のように聞けとでも光政侯は思われたのではないかと思います。
 でも、道歌を書きとめさせた後で、光政侯は、その侍に「どうじゃ。おもしろいか」と言ってから、更に、自問自答するかのように、次のように言われたと、言い伝えられています。
 
 「あの中江藤樹先生も、心学を自分の所作の基と思って、忠・信を中心として行住坐臥、日常の生活の中で何時も習って、その印を求め、心もちを広く寛(ゆる)やかにして、怠りなく学べば、必ず、悟りを開く可しと、言われたそうですが、人というものは、この「怠る」ことについつい陥り易いものだ。よくよく心して置かなくては」
 
 と。

 「いかなる時に於いても、決して怠るな」と、若き侍たちを戒めてやろうなどと言った浅はかな、やもしい心は、此の時の、光政侯にはなく、むしろ、自分自身に言い聞かせるようにして言ったのではないかと思います。この東海一の名勝地「薩捶峠」に差し掛った時も、そこからの不士の白雪も磯打つ浪の白馬跳らすをも心にはなく眺望することも心の外にあって、決して「忘れていた」というものではないのです。端から景色などといった浮世の誰にでもある様な心は皆無なのですから、「忘れていた」という誰にでもある様なお粗末な精神状態ではなかったのです。
 只、ご自分の信念に基いて、近侍の者と学問の話をしながら、何物にも、そうです、自然美さへも超越した、それこそ、神のなせる技としか考えられないような超自然の中に埋没しきった境地に入りきられ、誰にも邪魔されずに、悠々と、何時もの考え通りのご自分のままの中を通り過ぎて行かれたのではないでしょうか。それが、また、「神の姿の形代」ではないかなと思うのですが???

 光政侯の「心もちを広く寛(ゆる)やかにして」の意味は、こんなのではなかったのでしょうか。

 こんなことを書いていますと、いつか珍聞漢文氏に聞いた話が思い出されます。また長くなりますので、それは明日にでも。

此の字何の字? 誰か教えて!

2010-03-02 14:57:13 | Weblog
 昨日、偶然に、義母の本棚から何か薄汚れた貧弱そうな小さな虎の置き物を見つけました。今年が寅年ですから、正月前にでも見つけたのなら正月飾りにしたものをと思い、此の像の汚れを布で拭いてみました。
 磨くに従って、虎についていた汚れが少しずつ落ちて、虎に輝きが増します。すると、なんだかとてもいいものでは、と、云う気がしてまいります。しかし、此の虎は、いったい何のために、誰が、いつごろ、どこで作ったのか、かいもく見当だにつきません。誰か教えてくれませんか。
 大きさは、高さ5cmぐらいで、金メッキが施されているようなので、金額は相当するのではと思いますが??。(私の希望的観測からです)骨董は、ほどほどには好きなのですが、私は、今まで、こんなものは見たことがありません。なお、此の虎の像の後側には、漢字の隷書でしょうか、何やら文字らしきものが書かれています。字だとしたら、それもどう読むのかも分かりません。これも、また、お教え願えればと思います。
        
 

少将は莞爾と笑み

2010-03-01 10:27:33 | Weblog
 「ご前御風邪をめします」と駕脇の侍は恐る恐る申し上げます。すると、どうでしょう、居眠られておられるとばかり思っていたのですが、とっさに身を起して、次のように言われたのだそうです。
 「藤樹先生の教えに従ひ十三経の一部をも窺(うか)がはんと存じ、旅の駕にも四,五冊を置き、読めば読むほど玄妙に入り、瞑目して居ったのじゃ」
 と。決して眼むっていたわけではない、あまりにも難解なものゆえに、じっと目をつむって考えていたのだと、言われたのです。
 それを聞いて、この駕脇の侍は、まことに甚く恥入りして、次のように申し上げたのだそうです。
 「恐れ入りました儀にござります、御前の御学問に御心を御用ひ遊ばしまするは、あの了介も感服いたしておりますと申しておると、聞き及んでおります」
 それを聞いて、光政侯は莞爾と笑われたのだそうです。

 莞爾とはいかにも満足そうににっこりとする様子です。なお、十三経とは中国の孔子などの聖賢が著した書で、易経・礼記・孝経・論語・孟子などがあります。玄妙とは、その道理が深くて、幽玄微妙なる捉えどころがないようなはっきりしない様子です。
 
 それから、光政侯は、その侍に向ってこう言われたのです。
 「のう 五左衛門(これはその脇侍の名です)、余は論語や孟子にも未だ得心していない。熊沢のように十三経を皆学ぼうと思って、力に余ることなのだ。どうだ、道歌ぐらいなら口ずさむことはできるぞ、聞かせてやるから、書きつけて置け」

 その侍、早速、矢立てを取りだして六尺の歩みに従って自分の懐紙に書き付けます。

   “よきもあしきも影にみる、かみのけふの鏡が恐ろしものよ、われとむかふる影じゃもの、
    神の昔を尋ねりゃ其儘鏡じゃものを
    遠ひ神より唯目の前に、それをしろなら此身がすぐに、神のすがたの形代よ”

 光政侯が、どしてこの道歌を詠んで、駕籠の脇侍に書き付けさせたのか、よくはその理由は分かりかねます。又、その内容も、果たして何を意味しているのかも分かりません。
 よくはわかりませんがこの歌の奥にある内容は、
 「今、ここで自分は何をしなくてはいけないかよく考えなさい。みんなが誰でもするといって、薩埵峠に差し掛かったとて、必ず、雪が降り積もった富士山を見なくてはいけないと言う決まりはないのだ。その前に今しなくてはと思う大切なことはしておきなさい。それが旅の心というものだ」
 と、その五左衛門に伝えたかったのではと思うのですが??????

 どうでしょう、ご批判を賜ればと思います。