私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

「・・・・思慮せしによりて、久しく寝られざりき

2010-03-07 12:24:08 | Weblog
 幾晩もの寝むられない夜を経て、「ある夜より特によく寝させ給し」と、あります。どうして、突然に眠られだしたのかも、また、近侍たちを驚かせます。何が起こったのだろうかと不思議でたまりません。「答させ給はざりし」という心配もありましたが、再び、恐る恐るではありますが、光政侯に〈其故を伺いまいらせければ〉、次のように、今度は、お答えになられたそうです。それが、又、随分と奮っているのです。如何に備前藩主光政侯であったとしても、これが十四歳の少年の言葉であったのかと驚かされます。

 本に曰く、
 「我 父祖の陰に依り、此大国を賜る事、分に超えたりと思へり。しからば、此国民(くにたみ)をいかにして治め養うべきと、さまざまに心を尽くして、思慮せしによりて、久しく寝られざりき。」
 と。
 
 祖父池田輝政、父利隆の大きな功績によって、此の大国を賜ったのは自分には分不相応なことだと思う。しかし、この栄えあるその大任を果たすためには、どのような政治を行っていけばよいか、昼夜を問わず、考えに考えていたから眠られなかったのだと、いわれるのです。

 もし、御歳十四というのが間違いのないものであるなら、超天才少年光政侯の、一国の藩主の心構えとして絶賛されて当然なことだと思われます。
 しかし、詳しく調べてみましたのですが、光政侯が、因幡伯耆藩主から岡山藩主に転封されたのは、寛永九年の六月の事です。光政侯がお生まれになったのは慶長十四年ですから、その時はもう既に、二十三歳になられています。だから、この話は岡山藩主になられる以前の鳥取藩主時代ではなかったかと思われます。ちなみに、光政侯が鳥取藩主に任じられたのは元和三年ですから、御歳八歳の時です。

 岡山藩主になられた二十三歳なら、それぐらいな力量は、当然、備えられていたのだと思いますが、とにかく、当時の多くの藩主(江戸時代の藩主の数は三百諸侯と言われています)の中にあって、名高い名君の一人であったことには間違いありません。それだけの素質を生まれつきに持っていたのだと、この筆者は強調したかったのではないでしょうか。

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