私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

君主の儒となりて

2010-03-08 11:17:09 | Weblog
 光政侯は、この国を藩主として、どのように治めたらよいかと、あれこれ考えていたために、随分長い間、安眠することも出来なかったと、仰せられるのです。
 しかし、昨日読んだ論語の中に「君主の儒となりて」というのを見つけ、「そうだこれだ」と、思い付かれたのだそうです。自分も[君主の儒となりて、国民を教えやすんずべきという事をしりぬ」。
 自分もこうなるのだとそう決断してから、あれこれと思い悩むことなく、よく寝むれるようになっのだと言われるのです。
 
 この光政侯がお読みになって、「これだ」と決断したと言う「君主の儒」とは、一体、なんでしょうか。どういう意味なのでしょうか。
 私も、例の漢文の先生のご説をたびたび伺ってきた者です。多少なりとも、論語のはしくれでもと思い、調べて見ることにしました。
 私も論語の解説書みいたいなものを学生時代に買った記憶があります。早速本箱をあれこれと捜しますと、片隅に小さくなって置いてありました。早速取り出して調べてみました。
 小難しい言葉がそこらあたりに広がっていて、遥として捉え所のないような文字がいっぱいに並んでいる本を、初めから少しずつめくって行きました。この「君主の儒」は、論語のどこにあるのかも、皆目、見当すらもつきません。仕方ないので、やっぱり、又、例の漢文先生の御厄介にならなければしょうがないなと思っいながら、何気なく立ち上がります。どうしたことか、その拍子に、この論語の本が、ぱっかと開きます。すると、何という不思議なことでしょう、偶然めくれたぺージに、「子夏に謂いて曰く、女(なんじ)、君子の儒と為れ、小人の儒と為る無かれ」と、言う一文がこれ見よがしに並んでいるではありませんか。ご丁寧に、その後には『先生が子夏に言われます。『お前は君子のような器量を持った、大局の見える学者になりなさい。小人のような場末の事ばかり気にかける様な料簡の狭い学者になってはいけない。』 という、この言葉の持つ意味まで解説がしてあるではありませか。

 こんな偶然ってこともあるのですね。うれしくなって、今日はこれで終わりにします。