私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

心もちを広く寛かにして

2010-03-04 10:49:22 | Weblog
 光政侯が「・・・・神の姿の形代よ」と道歌を歌い、脇侍に、それを何故、書き取らせたのかはよく分かりませんし、その内容も、自分の身がどうして神の形代なのかも何かよく分かりませんが、そんなことをあれこれと詮索することもないような道歌なのです。ほんの戯言のように聞けとでも光政侯は思われたのではないかと思います。
 でも、道歌を書きとめさせた後で、光政侯は、その侍に「どうじゃ。おもしろいか」と言ってから、更に、自問自答するかのように、次のように言われたと、言い伝えられています。
 
 「あの中江藤樹先生も、心学を自分の所作の基と思って、忠・信を中心として行住坐臥、日常の生活の中で何時も習って、その印を求め、心もちを広く寛(ゆる)やかにして、怠りなく学べば、必ず、悟りを開く可しと、言われたそうですが、人というものは、この「怠る」ことについつい陥り易いものだ。よくよく心して置かなくては」
 
 と。

 「いかなる時に於いても、決して怠るな」と、若き侍たちを戒めてやろうなどと言った浅はかな、やもしい心は、此の時の、光政侯にはなく、むしろ、自分自身に言い聞かせるようにして言ったのではないかと思います。この東海一の名勝地「薩捶峠」に差し掛った時も、そこからの不士の白雪も磯打つ浪の白馬跳らすをも心にはなく眺望することも心の外にあって、決して「忘れていた」というものではないのです。端から景色などといった浮世の誰にでもある様な心は皆無なのですから、「忘れていた」という誰にでもある様なお粗末な精神状態ではなかったのです。
 只、ご自分の信念に基いて、近侍の者と学問の話をしながら、何物にも、そうです、自然美さへも超越した、それこそ、神のなせる技としか考えられないような超自然の中に埋没しきった境地に入りきられ、誰にも邪魔されずに、悠々と、何時もの考え通りのご自分のままの中を通り過ぎて行かれたのではないでしょうか。それが、また、「神の姿の形代」ではないかなと思うのですが???

 光政侯の「心もちを広く寛(ゆる)やかにして」の意味は、こんなのではなかったのでしょうか。

 こんなことを書いていますと、いつか珍聞漢文氏に聞いた話が思い出されます。また長くなりますので、それは明日にでも。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿