私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

国民を教えやすんずべき

2010-03-09 10:49:31 | Weblog
 論語の言う、君子の儒、即ち、〈大局の見える学者〉の「学者」を藩主としての自分に置き換えて考えられたのだと思います。大局の見える藩主になって藩民を導いていくことが我が進むべき道であると考えられたのです。もし、これが真実としたなら、有斐録にあるような14歳の少年が思いつくようなことでは、決して、ないはずです。岡山藩主となられた24歳という時が、もしもあったとしても、普通では考えられないような驚くべき思い付きだと思います。
 それこそ、全部で何字あるのかは知りませんが、所狭しといっぱいに並んでいる論語の文字の中から「君子儒」というたった三文字を見つけ出して、これを、これからの自分が目指す藩政治の指針に据えようと思い付かれるとは、想像を絶するような壮大なる人物だったと言わざるをえません。更に、その三文字から
 「国民(くにたみ)を教えやすんずべき」
 と、この藩主は考えられるのです。孔孟の教えを、特に、孔子の教えを広めることによって、人々の心の平安を求める事が、自分の岡山藩政治の最も重要な働きであると考えられたのです。その為に、政治の中心たる武士の子弟の教育をまず設立して、次に、庶民の学校を開く計画を実行することでした。それが閑谷学校へと発展していきます。
 この光政の時代は、ようやく徳川幕府も安泰して、それまでの武威をかざした強権な武力政治ではなく、所謂、平和的な文治政治へと、漸次、移行しつつあった時代です。このような時代を背景として光政侯も、岡山藩内で、儒教を中心とした文治政治を実施することが、我が政治の基本だと思いつかれたのだとおもわれます。
 その光政侯の心を物語る逸話が、先に上げた「御前薩埵峠に御座ります」と、少将の駕脇にいたの五左衛門へ話しかけです。
 「・・・儒学を学び、其印を求め、心を広く寛(ゆるや)にして・・・」
 と語られたのですが、この心を広く、人々の胸の中に植え付けるようにする政策を実施するのが光政侯の政治の中心となったのです。
 その中心となるのが、前に上げた「大学」の中にある「富潤家徳潤身 心広体胖」と言う言葉だと思います。

 なお。光政侯の駕脇侍「五左衛門」について色々調べてみましたが、少将に仕えた者に「五左衛門」と呼ばれていた侍は「秋田五左衛門」がいたのだそうですが、この人については詳しい記録がありませんので、其人かどうかは分かりません。
 その他、脇木久五左衛門と言う人が光政侯お側に仕えていたのは分かっていますが、この人かどうかも分かりません。