私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  125 緒方洪庵と藤井高雅

2009-03-24 17:20:34 | Weblog
 緒方洪庵の父は備中足守藩佐伯惟因です。この人は、また、高雅の祖父でもあるのです。即ち、洪庵の姉の喜智女(通称おきち)は高雅の母です。
 この高雅の祖父惟因から洪庵に宛てた、天保9年8月の書状が残っています。
 この書状によりますと、瘧病(ぎゃくびょうーおこり、マラリヤか?)になった高雅を診察してもらうために、兄輔政を介助役として、大阪の、当時日本一の名医と謳われていた緒方洪庵の元に遣ります。
 その前の月には、高雅の子尚太郎が死んでいます。人の死に対する恐れを人一倍知っている「おきち」の、どうしても、今、しなくてはならないことのように思ったのでしょうか。きっと、この書状を弟洪庵に書くようにと、父である惟因に頼んでのではないかと想像がつきます。この時、高雅は20歳です。
 なお、この書状の最後には、洪庵にその症状を見てもらったら、「宮内で静養させるので、早々に宮内に返すよう」にしてほしいという言葉も書き添えられています。
 これも、母おきちの心配が祖父をしてこの書状を出さしめたのではないかとも想像できます。あるいは、おきちが父に頼んでやったことではないかとも思えまます。
 また、その後、高雅は、天保12年にも、将軍家へ御祓箱を献上しに、吉備津神社の代表として江戸に行っています。その時も、祖父として惟因から洪庵宛に、「高雅が大阪に立ち寄るだろうからよろしく」という書状が送られています。これも、もしかして高雅の母であるおきちの父へ依頼であったかもしれません。
 この高雅の母「おきち」は、当時にあって本当に日本一、二を争うような気丈な女の人であったようです。おもしろいことなのですが、父も弟も、この人には一もなくおされぎみなお人ではなかったかと思えるふしが方々で見られます。

 まあ、それはともかくとして、何回か大阪を訪れている高雅は、洪庵の適塾での教育を聞いていたのだと思います。その教育方針「人の為に生活して、己の為に生活せざる医学」ということ言葉が、自分の「後松屋」の運営方針の基本となったのではないかと思われます。