私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

吉備って知っている  129 緒方洪庵の旅日記④

2009-03-30 12:54:18 | Weblog
 23日 曇不定
 「昼前より出立の御届に出、列席回勤。佐伯にて離杯相すみ、八ッ半(三時頃)足守発足。高松大橋に立寄。千足村、米屋浅吉へ見舞。夜四ッ(十時頃)時宮内光政へ着。佐伯より忠太夫を若党して、同所へ送りに相来る。立出の節見送り、喜多、山田・・・。
 妹尾又玄今昼より宮内へ来り、半嘉に一宿のよし。翌朝面会す」
 と、あります。
 
 ・「高松大橋」ですが、高松にはそんな地名のあるはありません。もしかして「大崎」だったのではないかと思われます。
 この「大崎」には、洪庵のいとこに当たる「石原官平」という人がいました。その子に守屋庸庵という人がいます。この人は、洪庵が足守を訪ねた当時、守屋家に養子として入り、倉敷西阿知に住んでいたのです。その生家に父親の石原氏を訪ねていたったのではと思われます。
 なお、この日記が終わったら、次に「足守徐痘館」について少しばかり触れたいと思うのでが、その館で大変な活躍をするのが、この洪庵のまたいとこの守屋庸庵です。
 
 ・光政というのは姉(喜智)の堀家の家です。足守から宮内まで千足などに立ち寄ったために午後十時頃到着しています。米屋浅吉が何者かは分かっていません。「見舞」とありますので、診療方々訪ねて行ったのではと思います。何か姉の「おきち」と関係が大いにありそうな感じがしますが、その辺りの事は歴史の中からは完全にたち消えてしまっていることです。が、洪庵の日記の中だけに「千足村、米屋浅吉」の名前が細々と残っているだけで、誰も注意だにしていません。

 なお、少し調べてみたのですが、母(きよう)の賀宴に列席したと書かれている「津下成斎」という人ですが、適塾姓名録には岡山藩医学館に勤めた津下精斎という人がありますが、その人であったのかも知れません。なぜ、この津下という人が洪庵の母の米寿の祝いに参加したのかはよく分かりません。

 ・「妹尾又玄」という人は箭田で医者をしていたやはり適塾に学んだ人です。適塾姓名録には「又玄」でなく「遊玄」とでています。
 
 ・「半嘉に一宿のよし」の「半嘉」というのは宿屋か何かだろうと調べてみましたが嘉永年間に作られた宮内の古地図の中には見当たりませんが、「茶屋米嘉」と、もしかして洪庵が間違って書いたのかとも思われますが。米嘉はありました。
 
 なお、「米」という字の草書体を。後世の人が「半」と読んだのかも知れませんが?