21日に母「きよう」の米寿の賀宴は夜半に終わったと、洪庵先生は、その日記に書かれています。
その翌日22日の日記から
「早朝午時迄病人診察」とあります。一時も自分の医者としての務めを怠ったことはないのです。
「今日堀家姉君、右兵衛(高雅の兄輔政)下総守(高雅)お梅、宮内へ帰り」
と、あります。
なお、ここに出てまいります「お梅」という女子は17,8歳頃で、輔政の長女でした。蛇足ですが、このお梅さんは、その後、すぐ大坂堺の医者平井是龍という人の妻になっていますが、これも洪庵先生の口添えか何かがあったからだと思われます。その後裔は今どうなっているのか機会があれば調べたいと思っています。
「原田磊蔵、別府琴松帰郷」
とあります。
洪庵先生も帰郷を聞いて駆け付けたのです。その人柄が大変よくわかるエピソードです。
「田中右門太より書状到来。□□申来る。右兵衛へ返事伝言す」
と、あります。□□はどんな字が書いてあるのか判断ができないのだそうですが、その2日後、24日の日記を見れば想像がつくのですが、それはまたその時にでも。
なお、現在では想像もつかないのですが、緒方先生の奥様「八重」というお人の事ですが、この人は大変出来がよく、福沢諭吉などから「大坂の母さん」と呼ばれ慕われていたということです。普通なら、姑の米寿の賀宴ですと一番に駆けつけなくてはんらないところですが、何せ大阪からです。そして洪庵にはこの人との間に6男7女の子供をもうけていますので、そんな暇もなかったのではと考えられます。
その翌日22日の日記から
「早朝午時迄病人診察」とあります。一時も自分の医者としての務めを怠ったことはないのです。
「今日堀家姉君、右兵衛(高雅の兄輔政)下総守(高雅)お梅、宮内へ帰り」
と、あります。
なお、ここに出てまいります「お梅」という女子は17,8歳頃で、輔政の長女でした。蛇足ですが、このお梅さんは、その後、すぐ大坂堺の医者平井是龍という人の妻になっていますが、これも洪庵先生の口添えか何かがあったからだと思われます。その後裔は今どうなっているのか機会があれば調べたいと思っています。
「原田磊蔵、別府琴松帰郷」
とあります。
洪庵先生も帰郷を聞いて駆け付けたのです。その人柄が大変よくわかるエピソードです。
「田中右門太より書状到来。□□申来る。右兵衛へ返事伝言す」
と、あります。□□はどんな字が書いてあるのか判断ができないのだそうですが、その2日後、24日の日記を見れば想像がつくのですが、それはまたその時にでも。
なお、現在では想像もつかないのですが、緒方先生の奥様「八重」というお人の事ですが、この人は大変出来がよく、福沢諭吉などから「大坂の母さん」と呼ばれ慕われていたということです。普通なら、姑の米寿の賀宴ですと一番に駆けつけなくてはんらないところですが、何せ大阪からです。そして洪庵にはこの人との間に6男7女の子供をもうけていますので、そんな暇もなかったのではと考えられます。
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